平和・安全・安心は誰もが求めるものです。聖書はこの世界を造られた神様との平和の重要性を語ります。(ローマ5:1)神との平和、それは神様の前に正しい者と認められるということを意味します。そしてそれは、神の御子イエス様の十字架の死に基づいてのみ実現します。神と平和をいただいた人には、神様からの攻撃はありません。人の世界における“安全”は必ずしも完全なものではありませんが、神様との関係正常化による安全は完全なものです。そして神様との平和の関係は人にとって一番重要なことです。
ルカの福音書の中から、いくつか平和に関する箇所を見てみましょう。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは、預言の中で、イエス様は神様との断絶状態にある者たちに対してまことの光であることを語っています。(ルカ1:78-79)罪によって悲惨な状態にある者が平和の道へと導かれることを預言しているのです。イエス様降誕の直後に野宿をしていた羊飼いにあらわれた御使いの賛美の中で、罪を自覚し、告白し、ゆるされた者、神の子として招かれた者への平和が歌われています。(ルカ2:14)イエス様降誕の事実を確認したシメオンは、安心・穏やかさ・静けさと共に死に臨むことできることを表現しています。(ルカ2:29-32)罪がある者にはわざわい、不幸が及びます。人は必ずしも因果関係を認識しませんが、罪には結果を伴うという法則があるのです。どれだけの人が神様の前における清算していない罪の大きさを認識しているでしょうか。これを清算できるのは、イエス様だけです。(ヨハネ1:29)一人の女性は自身の罪深さを認識していました。(ルカ7:36-50)そして罪がゆるされなければ恐ろしいことになること、その危険を認識していました。それであるからこそ唯一の救い主であられるイエス様を信じたのです。そして救われました。安全なところへ、幸いなところへと移されました。彼女は神様の保護のもとに置かれ安心を経験したのです。イエス様が宣教のために人々を派遣された時に、平安を祈ることを命令されました。(ルカ10:5-6)人々に救いの道が伝えられ、受け入れられるなら、彼らは主イエス様を頂点として従うようになるでしょう。そのような家庭には平和・安心が存在します。イエス様が講和(和睦)について語っておられる場面もあります。(ルカ14:31-32)強い相手には和睦するという平和の勧めです。神様の前において“兜を脱ぐ、また人と争わないことの利点が語られています。イエス様は将来において王としてエルサレムに入城される“予行演習”をなさいました。(ルカ19:38)やがてイエス様は平和の君主として世界を治められます。このお方を通して神様との平和を築く人は幸いです。それはイエス様を信ずることによってのみ可能です。信ずるとはイエス様を受け入れることであり、同時にイエス様の中へと入っていくということです。あなたは神との平和をもっていますか。