2月10日 苦難と希望の十字架

今回はマルコ15:33-41からイエス様の十字架の苦しみの後半部分を学びました。イエス様が十字架上で語られ(記録され)た七つのおことばの中でマルコは一つだけを記しています。今回の箇所からイエス様が私達のために手放してくださったもの、そして可能にしてくださったことについて考えましょう。

 ①父なる神様に捨てられてくださったイエス様(33-36節) →イエス様が十字架に架かられて3時間後の12時以降 空が真っ暗になりました。それは人類の罪を背負われたイエス様に父なる神様が顔を背けられたかのようです。午後3時にイエス様は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは人類の身代わりとなって罰を受けられているイエス様と父なる神様との断絶がもたらした叫びです。聖なる神様は罪と関わることができません。人類の罪の問題解決のために「有罪とされた」イエス様は一時的に父なる神様との関係を断ち切られました。それがどのような痛み・悲しみであるか私たちには到底理解できないことです。イエス様は仕える方としてこの世界に来られました。そしてこの瞬間イエス様は一番大切な父なる神様との関係を犠牲にする奉仕を私たちのためにしてくださったのです。それほど私たちは大事にされ愛されているということです。イエス様は酸いぶどう酒を口にされ、最期を迎えられます。

 ②父なる神様との交流を可能にしてくださったイエス様(37-41節) →イエス様は大声をあげて息を引き取られました。その瞬間神殿の幕が上下に裂けました。聖所と至聖所(最も聖い所)とは幕で仕切られており、大祭司だけが年に一度だけ入ることがゆるされる場所です。それは人々の代表である大祭司が神様と面会する聖い場所です。その幕が裂かれたことは、罪人が自由に神様に近づくことができる道が準備されたことをあらわしています。私たちの罪の結果の罰をイエス様が代わりに受けてくださったことにより、イエス様を救い主として信ずる私たちは、罪のある人間としては扱われません。罪のあった者がその罪をゆるされて、罪のない者として神様と交流することが出来るようになったのです。イエス様が父なる神様との交流を犠牲にしてくださったことにより、私たち一人ひとりは個人的に(イエス様を通して)神様に近づくことが出来るようになったのです。

 結論:イエス様の十字架の苦難は 私たちに無比の希望をもたらした →イエス様の十字架を見上げ、二つのことを覚えましょう。一つは私たちの罪はいかに重い結果(罰)をもたらしたかということ。私たちの罪が父なる神様と御子イエス様との関係を引き裂いたこと。もう一つは、イエス様の尊い犠牲によって、神様へのアクセスを得た私たちには大きな希望が与えられたこと。イエス様の十字架は私たちに神様との永遠にわたる親密な交流をもたらしたということ。罪をゆるされ、永遠のいのちをいただいた私たちは、これらのことを覚え、与えられた立場を感謝して、実生活においても神様に近づく歩みが期待されているのです。(ヘブル10:19-22)

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