ユダヤ人達のパウロに対する敵対心は増すばかりで、ついに彼らの中の40名以上の者たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓うまでになりました。彼らは、再度パウロの取調べを求め、ローマの兵営から議会への途上で彼を殺してしまおうと計画したのです。しかし、パウロの甥にあたる青年がこのことを耳にし、パウロに伝え、ローマの千人隊長が知るところとなりました。今回は主の御手の中にある者の現実を二つの側面から考えたいと思います。(使徒の働き23:12-22)
I. 反対の必然性(12-15節)→これは神様に敵対する罪深さの故に起こることです。クリスチャンへの反対は、小さな拒絶から殺意に至るまで様々です。それは人間の策略であり、背後で働く悪魔の策略であると言えます。これらの反対の理由の一つは、神様を知らない無知です。そのためまことの神様を(無意識にも)拒絶し、まことの神様を信ずる者を拒絶するのです。またクリスチャンが神様に従おうとすることにより反対が起こることもあります。聖い正しい神様の基準にあわせようとするならば、世の中の人々との溝が広がることは必然です。
II. 保護の確実性(16-22節)→クリスチャンに対する反対は現実ですが、もう一つの現実があります。それは全権を有する偉大な神様による保護です。神様は、ご自分が救い、ご自分の子どもとした者たちを護ってくださるお方です。ある場合には、御心によって、人が地上での歩みを継続するようにされます。ある場合には、御心によって、人を天の御国へ移されます。いずれの場合においても神様の保護が機能しているのです。クリスチャンは、生き延びるか死ぬかによって、神様の保護を定義することをしません。肉体的に生きていてもいなくても神様の御手の中にある現実に変わりはないのですから。
まとめ:主の御手の中にある幸いを知るだけでなく、味わいましょう →神様の御手の中にある者の生き様(そして死に様)は、正しい意味において楽観的であり、肯定的です。それが霊的な歩みです。ですから御手の中にある幸いを頭で理解するのみでなく、日々経験し、あらわす者となりましょう。