羊を日常生活で頻繁に見かける人は少ないでしょうが、羊を見て「怖い!」と思う人はほとんどいないでしょう。羊は決して強い動物ではありません。しかし耳は良いそうです。視野も広いそうです。しかし視力はそれほどよくないようです。いずれにしても世話と保護が必要な動物であることには違いありません。ヨハネの福音書10章では羊と羊飼いが登場します。それは私たち人間とイエス様との関係をあらわしています。あなたは自分が羊のような存在だと思いますか。イエス様によって守られ導かれる必要のある存在だと思いますか。今回の箇所で、イエス様は羊の門として紹介されています。それはあなたにとって何を意味するのか考えてみましょう。(ヨハネの福音書10章1~10節)
I. イエス様は門(7節)
門とは何でしょうか。それはその先(中)へ行くためにはどうしても通らなければならないチェックポイントです。合法的に入るためには通過することが求められる場所です。門があるということは、それ以外の場所には垣根や石垣、或いはフェンスが設置されているということです。そして、門は基本的に他の場所に移動することはありません。
イエス様が門であるとはどういう意味でしょうか。それはイエス様を無視してはその先へは行けない(行くことはゆるされない)ということです。またイエス様の元へ来るという手段以外によってはその先へは行くことができないということです。そしてイエス様は「入口」としての絶対的な権威をもっておられるということです。
イエス様が羊の門であるとはどういう意味でしょうか。イエス様は弱い一人一人を受け入れてくだるお方であるということです。一人一人に個人的に声をかけ名前を呼んでくださるということです。そして一人一人を良い方向、幸せの道へと導き入れてくださるということです。
II. イエス様は救いのための門(9節)
イエス様を通って入るとはどういうことでしょうか。それはイエス様を唯一の救いの門(方法)と認めて信じるということです。神様の前における罪のゆるしと永遠のいのちの約束をいただくということです。門の先(中)にある祝福を経験することができるということです。そしてそれは新しい人生を始めることができるということです。
III. イエス様は豊かないのちのための門(10節)
いのちとは何でしょうか。一つはいつまでも神様(イエス様)とともに暮らすことが可能となるいのちです。今はさまざまな負のもの(苦しみ・悲しみ・悩み・病気・罪・悪など)を抱えて生きなければなりませんが、肉体の死と同時に、それらのすべての負のものから解放され、良いものだけの、終わりのない幸いな生活が始まります。もう一つはこの地上にいる間の豊かないのちです。さまざまな負のものがある中で、自分や、人や、状況を見るのではなく、永遠の救いを与えてくださったイエス様(そのために身代わりに死に復活されたイエス様)を見上げて、信頼して生きるいのち(活力)です。それは神様のために生きる新しい生活です。
まとめ: 幸福の門であられるイエス様を通って救われましょう
私たちは皆 羊のように色々な意味で弱い存在です。私たちには、確実に守り、導くことができる存在が必要です。正しく絶対的な基準を提供してくれる存在が必要です。いつまでも続く幸いを与えることができる存在が必要です。私たち皆に共通する(最大の問題である)神の前における罪と、その結果の死、そして死後のさばきについて解決を与えることができる存在が必要です。自分ではどうすることもできないことを認めましょう。そしてイエス様の所へ行きましょう。イエス様の門をくぐりましょう。あなたのために代って罰を受け死なれたイエス様を信じて罪のゆるしと永遠のいのちの約束をいただきましょう。確かな希望を、そして救いを自分のものとしましょう。