イエス・キリスト様が肉体を持って(人となって)この世界においでなった時(初臨時)には、救い主としての姿が色濃く浮かび上がります。そこには罪人の身代わりとして死なれるイエス様の苦しみの姿があります。一方 イエス様が(今後)再びおいでになる時(再臨時)には、罪をさばくお方として、栄光のうちにおいでになられる姿に強調点がおかれます。今回は「キリストの苦難とそれに続く栄光」(Iペテロ1:11)という2つの側面からイエス様について学んでみたいと思います。
マタイ伝17章にはイエス様の姿が(栄光に満ちた姿に)変わる(変貌する)記事があります。そこには太陽のように輝くイエス様の御顔がありました。(2節) これはイエス様の正しさをあらわし、聖なるお方として罪に対する怒りを持っておられることをあらわします。(黙示録6:16-17) 一方 イザヤ書にはイエス様のそこなわれた御顔を見ます。(52:14) それは人の罪の結果を受けられた御顔です。それは父なる神様のお考えを実行されたためであり、私、そしてあなたの罪のため(そしてその苦しみの姿)でありました。(マタイ27:27-31)
再びマタイ17:2後半を読むと、イエス様の衣が「光のように白くなった」とあります。そこには汚れのない光輝くイエス様の姿があります。人は罪に汚れており、人の正しさでさえ、神様の前では「不潔な着物のよう」(イザヤ64:6)です。十字架刑の際、イエス様の衣服は分けられ、くじにされました。(ヨハネ19:23-24) イエス様は衣を剥ぎ取られ、恥をさらすという仕打ちをお受けになりました。それはまさに罪人の姿になることを経験されたということです。
さらにマタイ17章の記事には、イエス様の3人の弟子に加えてモーセとエリヤ、合計5人が登場します。(1-3節) 栄光に満ちた神であられるイエス様とこれらの5人が共にいることは、人の罪の問題が解決された現実を鮮明に映し出しています。神様との関係を妨げていた人の側の罪が取り除かれたことにより、人が神様のもとへと引き寄せられた素晴らしい光景です。それは神様の人間に対する一方的な愛と忍耐による結果です。それは神様と人が共に住むという、神様と人のあるべき姿の現実です。(黙示録21:3) イエス様はこの実現(回復)のために罪人の中に来られ、罪人と共に身代わりの死を遂げられました。(マタイ27:44) イエス様は神としてちからをあえて制限されることにより、私、そしてあなたの救いを可能なものとしてくださったのです。
イエス様による救いを経験している私たちクリスチャンは改めて栄光の主に連なっている(つながっている)祝福を覚え、感謝と賛美をおささげしようではありませんか。