複数の人間が集るところにおける「調和」が難しいことは前回述べたとおりです。世の中の企業やチーム、そして家庭もそうですが、それぞれの集団の中でリーダーの存在は重要になってきますね、私たちクリスチャンのリーダーはイエス様です教会のかしら(リーダー)であられるイエス様を認める時に、同じ救い主イエス様による救いをいただいた他のクリスチャンを認めることができます。これにより教会という集団は神様が望まれる環境・関係になることができます。そして、このことは自分たちの教会内だけでなく、他の教会、他のクリスチャンとの交流にも適用されることです。「イエス様にある調和」、それはクリスチャンが求めるものです。しかし、難しいことでもあるのです。今回はイエス様にあってもたらされる調和の効果と、その逆の崩壊の実例を取り上げます。(使徒の働き15:30~41)
I. 主にある調和の効果 (30~35節) →エルサレム会議における決定を受けて、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人クリスチャンへの手紙(書簡)が用意され、その中で(ユダヤ人と)同じクリスチャンとしての立場が確認され、一部のユダヤ人クリスチャンによる不適切な言動が認知され、主にある交わりのために要請を必要とする事柄が明確にされました。バルナバ、パウロ、そしてエルサレム教会のユダとシラスはアンテオケに向かい、教会の人々にこの手紙を手渡しました。この手紙は喜びを与える励ましとなりました。懸案事項が霊的に取り扱われ、解決したことによって、ある意味 被害者であった異邦人の心が喜びに満たされたのです。またこのような霊的な雰囲気の中で語られるユダやシラスを通してのみことばは、彼らの信仰を強める励ましとなりました。さらにパウロとバルナバの宣教活動を後押しすることにもつながりました。
II. 主にある調和の崩壊 (36~41節)→数日後にパウロは、バルナバに新たな宣教の提案をしました。第一次宣教旅行において訪問し、イエス様を信じ受け入れた人々が、今どのようにしているかを確認するためです。この提案にバルナバは賛成しましたが、そのメンバーについては考えの違いがありました。バルナバは自分のいとこでもあるヨハネ・マルコを再度同行させたいと思いましたが、パウロは先の旅行の途中で離脱した彼を同行させることには反対でした。両者の議論・争いは激しくなり、お互いに別々の道を行くことになりました。バルナバはマルコを連れてクプロ(キプロス)に向かい、一方パウロはシラスを連れて諸教会を再訪問するために出かけました。
主のための働きにおける分裂、それは神様の導きを求めない結果です。偉大な信仰者でさえ、神様の導きを求めることにおいて失敗することがあります。マルコの、働きへの回復を願い、バルナバはクプロの島で主に仕えました。結果的にマルコは建て上げられ、福音書の一つを著す人物にまでなりました。主のための勇者を求めていたパウロにはシラスが与えられ、後にはテモテやその他の人たちが与えられていきます。神様は(今日の箇所の段階で)両者が一緒に行動するのではなく、二つのチームとして出発することを最初からお望みだったのかもしれません。しかし、激しい議論・争いの末、分裂というかたちに終わったことは神様のお望みの方法ではありませんでした。(パウロは後にバルナバ、そしてマルコについて評価していると思われる言及をしています。)
まとめ:クリスチャンの調和は、謙虚に神様の導きを求めることによって保たれる →調和(一致・平和)を作り上げることは、困難を伴いますが、調和の崩壊は突如起こってしまうものです。崩壊の傷を生涯抱え続けなければならない場合もあります。私たちの「主のために」という思いは、神様の御心・導きを求めた上でのことである必要があります。そのような謙虚さが必要です。皆 それぞれ違う考え方があります。主にあって(神様がゆるされる範囲内においての)違いを認めあいましょう。自分がではなく、神様が状況をコントロールされるようお互いに導きを求めることができるクリスチャンの関係・調和を築いていきましょう。