神様が私たちに求めておられることの一つは、私たちが主の栄光のあらわれを待つことです。(テトス2:11-14)
過去と現在において神様の恵みはあらわされています。私たちは以前持っていなかった救いをいただくことができました。それにより私たちには捨てるべきものと持つべきものがあります。先ず捨てるべきものは、不敬虔とこの世の欲です。不敬虔とは神様を第一にしない、従わない態度であり行動です。これは神様のお役に立つことができない状態です。この世の欲とは終わることのない追及です。これらは救いの恵みをいただいた私たちが捨てるべきものです。一方、持つべきものは慎み深さ、正しさ、そして敬虔です。慎みは自身が遠慮し控えめに行動し自己をわきまえることです。正しさは対人関係において誠実さを保つことです。敬虔は神様に対して正常な状態にあることです。これらは救いの恵みをいただいた私たちが持つべきものです。
将来においては主の栄光のあらわれが現実のものとなります。それは祝福された(幸いな)望みであり確実なものです。偉大なる神であられ救い主であられるお方がキリスト(神に承認されたお方)としてあらわれてくださいます。主は完全であり完璧です。主は私たちのために人となられ、死なれ、復活され、霊において私たちの内に住んでいてくださいます。私たちはこのお方を、準備を整えて待つ者とされているのです。
その時まで私たちは、主の晩餐を継続し、イエス様の死を記念し、示すのです。(Iコリント11:26)主の晩餐の継続は、忠実な教会の歩みの継続です。そしてそれは教会を形成する個々のクリスチャンの信仰の継続でもあります。正しい姿における継続は、そこに集まる者たちの状態に責任があります。主が来られる時まで、私たちは健全な歩みができるでしょうか。