「出会いは人生を変える」と言われます。今回の箇所に登場するサウロ(後のパウロ)は、神の御子イエス様と出会ったことにより、大きく人生を変えられました。サウロの回心―救われたこと―は「キリスト教の歴史の中でペンテコステ以来一番重要な出来事」と言われるほどです。今回はパウロが経験した、そしてクリスチャン皆が経験した、人の最大の問題の解決、そして最大の幸福を提供するイエス様との出会いについて学びましょう。(使徒の働き9:1-9)
サウロはユダヤ人として生まれ、父親からローマの市民権を受け継ぎ、神学においては最高レベルの教育を受けた人でした。彼は宗教的には非常に熱心な人でしたが、自分が学んできたこととイエス様を信じるクリスチャンの「道」との結びつきを認識することができないでいました。そのため彼の熱心さはクリスチャンへの迫害・排斥・暴力を伴う行動へと駆り立てられたのです。サウロにとって、クリスチャンの信仰の歩みは神様に対する大きな罪であり、そのような彼らを“取り締まる”ことは神様に喜ばれることであるとさえ思ったのです。彼の迫害はエルサレムに留まることなくエルサレムから北東へ200キロ以上離れたダマスコにまで及ぼうとしていました。しかし、彼の人生はダマスコへの途上で一変することになるのです。
突然強い光に照らされ、立っていることができなくなったサウロは天からの声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。色々な意味においてこれはサウロにとって驚きの経験であり、短時間で消化するには濃すぎる内容であったに違いありません。これは自分が正しいと信じて行ってきたことが、実は神様に対して反抗する行為であったことを知らされた瞬間でした。彼はイエス様から語りかけられたこと、ダマスコに行くようにということ、またそこでするべきことが伝えられることを知らされました。彼がこの時イエス様を救い主として信じ救われたかどうかは定かではありませんが、少なくとも彼には知らなければならない、多くの真実がなお欠如していました。彼は三日間、ものを見ることができず、飲食もしませんでした。この時間はサウロにとって、自己の過去を省み、否定し、イエス様による新しい生き方をする準備期間として意味をもつものとなったことでしょう。
さて2つのポイントでサウロの経験と私たちクリスチャンの経験を重ねあわせてみましょう。
①イエス様は私たちを救うためにご自分をあらわしてくださった→ イエス様はサウロに語りかけてくださいました。それは彼を変えるため、救うためでした。イエス様は私たちにも同じ理由で近づいてくださいました。私たちの罪の問題を解決し、いつまでも続く幸いを与えるためです。サウロは本当のことを知らず、恐ろしい生き方をしていました。そのような彼を衝撃的な経験とともに救いへと導かれました。私たちも神様に対して背を向けて生きてきた者であるにもかかわらず、救いへと招いてくださいました。真実と向き合い、まことの神様と向き合うことが出来たのは、神様の恵みというほかありません。サウロがイエス様に出会わなかったならば、彼は破滅の道を一直線に進んでいたことでしょう。私たちもイエス様に出会うことがなければ、滅びへの道を真っ直ぐ進んだことでしょう。時代・環境・周囲の人々、様々なことを神様は備えてくださり、救いの道は私たちにも示されたことを感謝しましょう。
②イエス様は私たちを用いるためにご自分をあらわしてくださった→ 神様はサウロの人生に目的をもっておられました。彼が救われたことによってその目的を果たすことが開始されたのです。神様は私たち一人ひとりの人生にも目的をもっておられます。私たちはイエス様によって救っていただいたことにより、本来私たち人間があるべき姿で、なすべきことを実行できるようになったのです。救われた者の生き方は、この世界を造り、自分を造ってくださった神様の権威を認めるものであり、神様を喜ばせるという動機をもったものであり、霊的に益を生み出すものであり、天に宝を積むものです。イエス様との出会いは罪のゆるしと永遠のいのちを可能としたにとどまらず、生涯において神様のお役に立たせていただくという特別な立場も提供されたことを覚えましょう。
まとめ:イエス様との出会いは真の救い、そして神様のために生きる人生を可能にする→ サウロにとってダマスコへの途上はイエス様に出会う途上となりました。彼の回心は劇的です。しかし、すべての人の回心はその意味を考える時に実に劇的なのです。罪と罪の結果に対して無力で絶望状態であった人が、変えられ、解放され、救われ、希望を与えられたのですから。イエス様と出会った人は、神様の前での罪が指摘され、悔い改めへと導かれます。そして救われた人は神様のために生きる歩みをスタートすることができます。そのような歩みの継続は神様をお喜ばせするものとなるのです。今一度救いの恵みの大きさを黙想し、イエス様のために「あなたのしなければならないこと」を明確にしていただき、それに励んでいこうではありませんか。