今週はマルコの福音書12:41-44から「全知の主に真心を」ささげることについて学びました。神様は私たちの生活・人生をご覧になっておられるお方です。そして私たちの行動、一つひとつの行動の動機をご覧になっておられます。今回献金箱の前でイエス様がご覧になっていた記事から 人間の能力を超えた神様の視点を知ることが出来ます。
まず ①イエス様は表面的な部分をご覧になります。この点については私たち人間も同じです。私たちは自分の行動を人に見られ、また人の行動を見ることができます。献金箱の前で座っておられたイエス様はお金持ちと思われる人が多く投げ入れ、貧しそうな人がわずかなものを投げ入れているのをご覧になっておられました。
次に ②イエス様は隠れた部分をご覧になります。イエス様にはさらにご覧になっていたものがありました。一人のやもめがレプタ二つを投げ込んだ理由、そしてどのような経済状況の中でそれをしたのかということについてです。そして「この女性はすべての人より多く投げ入れた」とおっしゃいました。表面的にはわずかなものを投げ入れたわけですが、極度の貧困の中にいる彼女がささげたものは、他の人たちがささげたものと比べるならば割合的には一番大きかったのです。そのことをイエス様はちゃんとご覧になっていました。
最後に③ イエス様は心(信仰)をご覧になります。イエス様はこのやもめがどんなに貧しい人であったかを知っておられました。そして今投げ入れたものが彼女にとって生活のすべてであったことも知っておられました。イエス様はそこでさらに深い部分をご覧になりました。それは彼女の心であり、信仰です。他の多くの人たちは余裕のある中からささげものをしていました。つまりささげた後でも相当のお金が手元に残ったということです。しかし彼女の手元には残りませんでした。彼女は出来る限りのもの、一番良いものを神様にささげたのです。それは神様に喜んでいただくことが一番大事なことであること、物質的なものではなく神様に信頼することが大事なことであるという彼女の信仰の表現であったのです。
惜しみなくささげる心を 神様は喜んでくださいます。神様は私たちのお金がほしいのではありません。神様は私たちのささげる心(神様に使っていただきたいという態度)を求めておられるのです。誰でも自分にとって一番大事なもの(それは金や物に限らず、若さであったり、一日の中での時間であったりしますが)をささげることは難しいものです。しかしイエス様は私たちの罪のゆるしと永遠のいのちのために最高のものを私たちにくださいました。その意味を理解する時神様への感謝の表現として「ささげる」ことができるのではないでしょうか。神様からすべてをいただいていることを理解する時 「余りもの」ではなく最初の一番良い部分をささげることができるのではないでしょうか。あなたは今日何を神様におささげするでしょうか。
2012.5.13のランチ
(きのこカレーをいただきました)→