以前オリンピックの競技を観戦する人の中に、“John 3:16”(ヨハネ3章16節)のサインを掲げる人がいるのを何回か見たことがあります。この聖書の箇所は、聖書の中の聖書と言ってもいい箇所で、聖書のメッセージの要約である神の愛の代名詞なのかもしれません。
クリスチャンであれば、神の愛については何度も聞いたことがあると思います。この一節もきっと暗唱することができるでしょう。しかし、この聞きなれた、言いなれた箇所をより深く考えてみることには大きな価値があります。聖書の中心と言えるこの箇所から神の愛について学んでみましょう。(ヨハネの福音書3章16節)
I. 神の愛は個人的である
原語の語順によると、この節は“神はこの世界を愛された”で始まります。神様の偉大な愛はあなたという一人の人間にもあらわされたのです。神様は「世」を愛されたのですが、全人類を大雑把に愛されたのではなく、一人一人を個人的に愛してくださったのです。
その神様の愛は無条件なもので、一方的・選択的・犠牲的なものです。あなたの側には、愛される理由は何一つありませんでした。逆に愛されない理由が十分すぎるほどあったのです。神様の愛は人の愛の程度をはるかに超えるものです。
II. 神の愛は具体的である
神様の愛は、行動によってあなたにもあらわされました。神様はご自分にとって一番大事な存在を手放され犠牲にされたのです。ご自分が愛しておられるたったひとりの(他に類のない)子に、全人類の罪を負わせ、罰を与えることを決断されたのです。(IIコリント5:21)その罰は十字架刑というかたちで公にあらわされました。
III. 神の愛は効果的である
神様の愛の行動は、“負のものを取り去る”目的を伴ってあらわされました。罪のあるあなたの当然受けるべき結果は死と永遠の刑罰ですが、その立場を無効にされたのです。罰が免除され、ゆるされるはずのない者がゆるされたのです。
また神様の愛の行動は、“良いものを提供する”目的を伴ってあらわされました。あなたが、人としての本来の生き方ができるようになり、また永遠にわたる幸せを確保することができるようになったのです。
神様の愛は全人類(文語では「すべて」)を包むものです。あなたも、神様がこの世界に送られたイエス・キリスト様、あなたの代わりに罪を背負い、死なれ、そして復活されたお方を信じることによってこの愛の効果を自分のものとすることができます。
まとめ:神は愛なり このゆえに我 救われたり
クリスチャンとしての歩みが長くなればなるほど、自身の神の前における罪深さをより教えられることになります。そして同時にそのような自分に神様が注いでくださっている愛をより教えられ感謝が増すことでしょう。神様に愛される理由がない自分が愛されたこと、愛されていることを黙想しましょう。神様の愛には、人間の理解を越えた犠牲が伴っていることを黙想しましょう。神様の愛が可能にした自身の罪の問題の解決と永遠の幸いの確保の素晴らしさを黙想しましょう。(第一ヨハネ4:9)