私たちの信ずる神様は全能の神様です。(マタイ19:26) しかし、ある方は“もし神様が何でも出来る存在なら、なぜこの世の中に不幸なことが起こるのか”(なぜ止められなかったのか)とたずねるかもしれません。聖書は罪の法則について教えています。人間には(神様を無視している)罪があり、罪をもった生き方にあるため、神様の視点からすると、不幸な状態であることは当然であるということです。罪があるところには苦しみが存在するのです。神様が意図的に人間を苦しめているということではなく、人間の罪の現実が不幸を自ら招きよせているのです。(警告を無視してビルの10階から飛び降りるようなものです) 罪のある私たちは本来(神様に前における罪深さを考えるならば)もっと不幸な状態で存在し滅ぼされるはずですが、もしそうなっていないとするならば、それは神様の憐れみと言うほかはないのです。私たちは苦しむのが当たり前の存在であることを胆に銘じなければなりません。
神様の全能は人をさばかれること、また護られることによってあらわされます。ノアの時代の洪水の際、大雨を降らせるという全能によって殆どすべての人類をさばかれたのと同時に、その全能によってノアの家族8人とその他の生き物を保護されました。
神の御子であられるイエス・キリスト様の全能は創造のみわざにおいて、また創造物(被造物)を保ち続けることにおいてあらわされています。(へブル1:2-3) イエス様は地上でのお働きにおいて、(造り主として)風や波を制御されました。(ルカ8:22-25) また人の生活を暗いものとする悪霊を追い出すちからをあらわされました。(ルカ4:31-37) イエス様は高熱を癒す奇跡もなさいました。(ルカ4:38-39) マルコの福音書の2章でイエス様は、人の病と罪を並行して取り扱われました。イエス様は病をいやすちからと共に罪をゆるす権威をもっておられることを明確にしてくださいました。(2:1-12) 身体が不自由であった人が癒され、また罪がゆるされたのは、イエス様が十字架で流してくださった血によります。この場合においては、罪のゆるしと身体の回復が短時間の中で行われましたが、罪のゆるしをすでに経験している私たちクリスチャンの身体の完全な意味における回復(栄化)は、将来において実現します。
イエス様の全能は、私たちの日々の歩みにおいてもあらわされます。使徒パウロは私たちの弱さの中にあらわされるイエス様のちからを体験的に証ししています。(IIコリント12:9-10) イエス様の栄光に満ちたちからは、私たちが神様に喜ばれる歩みを実現できるようにと強めることが可能なのです。(コロサイ1:11-12) 私たちの必要に応じてちからを与えてくださるイエス様の全能を覚えつつ日々歩ませていただきましょう。(ピリピ4:13)