心停止の状態から蘇生した人の「臨死体験」のほとんどがポジティブなものであるため、死後を明るいものとしてとらえている方も多いようです。一方で、死後のことがらはなお闇に包まれており、そこには恐れと不安が常に横たわった状態にあるという感覚の人も多いでしょう。誰にでも訪れる死について明確な答えを持つことは重要です。聖書は死後のことを明確にしています。そしてその現実にどのように対処すべきかも教えています。聖書は「最悪のものから最高のもの」への変化の必要とその方法を教えています。それは死からの復活のちからをもっておられるイエス様による方法です。そのちからがどのようなものであるか学んでみましょう。(ヨハネの福音書11章17~27節)
I. イエス様のよみがえりのちからは ご自身と人にあらわされる
イエス様ご自身のよみがえり:よみがえりは死ぬことが前提となります。イエス様は本来死ぬことがありません。罪がないので死ぬ必要がないのです。しかしイエス様は、罪のある人間、罪ゆえ死ななければならない人間のために、死のプロセスをあえて通ってくださいました。ゆるしのために人の罪を背負い、身代りに死なれたのです。そして救いの完成と、ご自分には罪がないこと、また神であられることをあらわすために復活されました。
人のよみがえり:人は神様の前における罪ゆえ皆に死が定まっています。さらに死んだ後のさばき(永遠の刑罰)が定まっています。そのような罪ある人のためにイエス様が死に、復活されたことにより、それを信じる一人一人に、個人的にその効果(死に対する勝利)が適用されるのです。
II. イエス様のよみがえりのちからは どの瞬間においてもあらわされる
終末におけるよみがえり:ラザロの姉妹マルタは「終わりの日」にラザロはよみがえることを知っていました。やがてイエス様が空中までおいでになられる時、イエス様を信じてすでに死んでいた者たちが確実によみがえらせられます。
今起こりうるよみがえり:ラザロはよみがえらせられました。それはマルタやマリヤが予期しなかったことです。イエス様は、それを御心とされるのであれば、今この瞬間においても、人を死からよみがえらせることがおできになるちからを持っておられます。
III. イエス様のよみがえりのちからは 完全なかたちであらわされる
二度と死なないよみがえり:ラザロはよみがえらせられましたが、再び死を経験することになりました。イエス様を信じ、終末におけるよみがえりを経験した者は、もはや死に臨むことがありません。そこには人の活動の停止や人との別れは存在しないのです。
栄光に満ちたよみがえり:イエス様を信じた者がやがて経験するよみがえりは、“生きていた時と同じ状態に引き戻される”ということでは決してありません。地上での状態とはまったく違う良いもの、完全なものへと変えられるのです。単に生き続けることができるだけではなく、罪・汚れが存在せず、悲しみ・苦しみ・嘆き・不安・失望など、今経験しているあらゆる不快な事柄から解放された中で、イエス様に対する賛美と感謝を他の者たちと分かち合う中で永遠に過ごすのです。
まとめ:よみがえりであられ いのちであられるイエス様に栄光あれ
イエス・キリスト様は死からよみがえられました。このお方は私たちもよみがえらせることがおできになります。イエス様のよみがえりのちからが個人的に適用されること(救いが成就すること)は神の恵みです。そのちからがイエス様を信ずる者を新しくし、真に人間らしく生きる(活きる)ことを可能とすることは神の恵みです。そしてそのちからが神のこどもとなった者を聖なる者として永遠に生かすことができるのは神の恵みです。このことを信じていますか。もしそうなら、あなたのために死に、あなたのために復活されたイエス様に栄光を帰しましょう。