カイザリヤに移送されたパウロは総督ペリクスの前でローマの裁判を受けることになりました。前回見たように、まずユダヤ人達がパウロに対する訴えをしました。今回はそれに対するパウロの弁明を見ることになります。彼の弁明はクリスチャンとしての告白であり、生き様です。以下のパウロの弁明を考えてみましょう。(使徒24:10-21)
私は主にお仕えしている(礼拝している)(14節前半)→パウロはまず、自分は神様に仕える者であることを告白しています。このお方はユダヤ人が今まで神として礼拝してきた存在です。パウロは、以前はこの「道」の者たちを激しく迫害しましたが、今はこの道がもたらす救いを伝える者として命がけで神様に仕える礼拝者となりました。
私は主のことばを信じている(14節後半)→パウロは神様からの律法、そして預言者たちが記したことを含む(旧約)聖書をすべて信じている人です。それは神様の権威を認め、このお方のことばを、理解する、しないに関係なく受け入れているということです。
私は主にあって復活の希望を持っている(15、21節)→パウロの主にある希望はまことの神様のことばを土台とした希望であり、確かなものです。(コロサイ1:5)罪を持つ人間を待っているのは、死であり、その後の滅び(永遠に続く刑罰)です。このように絶望的な罪人が神の御子イエス様に出会い、また救われたことにより、「義人」として復活させられる希望(約束)が与えられました。それは完全な者へと変えられる(栄化の伴う)復活です。
私は主にあってベストを尽くしている(16節)→主にある希望を持つパウロは神様の前に、また人の前に最善を尽くそうと努める人でした。彼は神様のみことばによって培われた良心に従って御心を行うことに励みました。またやがてすべての人に対して究極的な正しいさばき(精算)をされるお方に対する畏敬の念を持って歩みました。
私は主にあって人々に仕えている(17節)→パウロがエルサレムに来た理由の一つは諸教会から集めた献金を信者に手渡すことでした。彼は主にあって主にある者たちに仕える人でもありました。彼は主に目を向けることにより、正しい動機・目的・態度で奉仕に励みました。彼は神様から与えられたものを神様のために用いたのです。
私は主にあって訴えられている(11-13、18-20節)→以上のような告白をしているパウロは主にある者として反対され訴えられています。彼がエルサレムに来たのは礼拝のためです。そもそもわずかな日数でさわぎを起こすことは不可能であり、リーダーとして人々を扇動することも不可能です。またユダヤ人たちが言うところの“神殿を汚した”という根拠は存在しません。パウロはイエス様を信じ、イエス様を伝える者として、偽りの訴えを受けることになったのです。
まとめ:主の側にある我に敵なし →私たちは「主にあって」のみ存在目的を有しています。神様によって造られ生かされている私たちがそのことを認識する時、人として意味のある、そして神様に喜ばれる生き方ができます。そこには生きることにおける正しい動機、そして生きる喜びと平安と充実感があります。そして「主にあって」のみ将来の希望、復活の希望、永遠の希望を持つことができ、今の歩みを継続することができます。あなたは主にある者ですか。主の側にある者ですか。主の側にあるあなたはこれらの告白ができますか。