主イエス・キリスト様の十字架の死は父なる神様への従順の結果です。(ピリピ2:6-8) 人間は神様によって造られた存在ですが、従うことができない生き物です。人間は自己中心であり、常に罪を犯す者です。そのような人間―罪人が受けるに値するものは死でありさばきです。罪人がゆるされ救われるためには罪のない存在が代って罰を受ける必要がありました。神の御子イエス・キリスト様こそが世の罪を除く(或いは覆う)神の子羊であられます。
イエス様は父なる神様のご計画を認識され、御心をわきまえられて人となってくださいました。イエス様は一貫して父なる神様に従ってくださいました。父なる神様に対する従順がイエス様にとっての最大の関心事であったのです。一方 人間は罪を犯すことが「本職」のような存在です。自身がそうであり、周囲がそうであるため、人間の罪の認識は貧しいものです。自身を創造された神様の御心に従うという理想からは大きくはずれてしまった人間の回復もイエス様の十字架の目的であったのです。
イエス様は人となられる時に、貧しくなることに甘んじてくださり、罪を犯さず、罪のない生活をされました。イエス様は人間に仕えることに奔走される中で、肉体をお取りになった人として、疲れや空腹を覚えられました。悪に対して復讐なさらず、父なる神様に従われました。それは父なる神様の権威・尊厳を優先されたということです。イエス様は従順において何一つ欠けたところがなく、人の理想の姿を示してくださいました。恩を忘れてしまうような者たちのために、人として苦しみをお受けになり、誰よりも痛みを経験されました。
父アブラハムに身を委ね従った息子イサクの姿はイエス様の模型です。使徒パウロも神様の御心を行う覚悟を宣言しています。(使徒20:24) 私たちは「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2:10)と命令されています。イエス様の十字架の死の目的は、私たちが救いをいただくだけでなく、苦しみを受けられたイエス様の模範に倣って歩むことです。(Iペテロ2:21) ですからイエス様に従おうと思うのであれば、自己を否定し、十字架を負う(苦しみを受ける)覚悟をして従うようにと求められているのです。(ルカ9:23)