“イエス・キリスト様が誰であるのか”は大きな、そして重要な問題です。そして個人的に“誰であるのか”が大事なポイントです。イエス様は、ご自分が神であると主張なさいました。そのため、あるユダヤ人たちは、イエス様を石打にしようとしたのです。聖書はこのお方が神であり、罪のある人間にとっての、唯一の救い主であられると教えています。この教えを信じたクリスチャンは、これが真実であることを知っています。人は個人的にイエス様に対する態度を明確にしなければなりません。イエス様が神であられるのか、ただの嘘つきかどちらかでしかないからです。今回の箇所も、イエス様がどのようなお方であるかを教えます。そして最後に受け入れるか、受け入れないか、信じるか、信じないかが問われているのです。(ヨハネの福音書3勝31~36)
I. イエス様は天からおいでになられた(31節)
自分は“天から舞い降りた”と言う人がいるかもしれません。しかし、イエス様がおっしゃる意味において天から来た人は存在しません。イエス様は来られました。ですからイエス様は「盛んに」なられるのです。(30節)ですから地上のものよりも高い権威でお語りになるのです。ですから人の信仰の対象であられるのです。「上から」の新生は「上から来る方」に対する信仰によってのみ経験できるのです。(3節)
「地」のもの、「地から出る者」には限界があります。バプテスマのヨハネは「神から遣わされた」人ですが(1:6)、イエス様のように天から来たわけではありません。悔い改めとそのバプテスマの働きのために召されたのですが、イエス様のように天のことを紹介することはできません。
II. イエス様は直接的経験により真実を知っておられる(32節)
現地に行った人の、経験に基づく話には重みがあり説得力があります。イエス様は理論ではなく、天のこと、神様のことについての直の体験・経験をもとにお語りになられます。
III. イエス様の証しは常に神のものと合致する(33節)
直接的経験とともに天からおいでになったお方の証言が真実でないわけがありません。それは「神のことば」です。(34節) イエス様は父なる神様がご覧になられることを見ておられ、証言されるのです。完全であられるイエス様が、その内容について間違えることはありません。イエス様は真実であられるので、嘘が含まれることはありません。
IV. イエス様は無限に聖霊を体験しておられる(34節)
ヨハネまで続いた神のメッセンジャー(預言者)には、真の証しのための聖霊が与えられたのですが、イエス様が与えられたその程度は比べることができないものです。聖霊のバプテスマをお授けになるイエス様には、制限なしに聖霊が注がれたのです。(1:32-33)ですからイエス様の語られること、されることすべては神様の御心に完全にかなう(沿う)ものなのです。
V. イエス様は最高の立場を授かっておられる(35節)
「すべてのものの上におられ」るイエス様には(v.31)、父なる神様からすべてのものが委ねられました。神様がご自分の目的を果たす完全な権威をお与えになったことは、御子イエス様に対する愛によります。イエス様は全権大使としてのお立場を授かったのです。
★イエス様への応答(32~33、36節)
イエス様がすべての面において(特にバプテスマのヨハネに)優っておられることを見てきましたが、あなたはどのような応答をされた、またされるでしょうか。
イエス様の証しを受け入れますか。拒絶しますか。信じますか。従うこと(信じること)を拒みますか。受け入れる人、信じる人は救い主イエス様とつながり、永遠のいのちをもつことができます。受け入れない人、従わない人は、神の国(天国)を見ることができず、死を見ることになります。そして、いつ降っても不思議ではない、神様の、罪に対する怒りの下に居続けることになるのです。
まとめ:イエス様を信じ受け入れる人は、神の怒りの対象から外され 永遠の祝福の対象とされる
罪のある人間を先祖にもち、罪の世界に生まれたすべての人間は、罪のある存在です。その前提がある私たちは、否応なしに聖なる神様の怒りとさばきの対象です。その私たちのところにイエス様は天から来られ、神を示し、救いの道を準備し、招いて下さいました。イエス様を個人的に信じる人は、神様の前に(罪が)ゆるされます。これは驚くべきことです。本当に有り難いことです。私たちの上に常にあり続けた神の怒りが消滅するのですから。イエス様を信じましょう。そしてこのお方をさらに知ろうではありませんか。そしてこのお方を深く知ることの祝福を味わおうではありませんか。