関ヶ原の戦いにおいては、寝返った武将たちの存在が勝敗を大きく左右したと言われています。昨日まで仲間だと思っていた者に矢を向けられるならば、それは“裏切られた”ということになります。パウロは今回の箇所で「敵になった」という表現を使っています。クリスチャンの間でそのような“裏切り行為”があるのでしょうか。かつてパウロが教え導いたガラテヤのクリスチャンたちが、間違った教えに惑わされ信仰がぐらついた状況を考える時に、確かにそのようなことが起こっていたと言えます。パウロとガラテヤのあるクリスチャンたちとの間には亀裂が生じ、“敵同士”のようになってしまったのです。パウロはこの状況を単に嘆くのではなく、(霊的相続について語る中で)彼らに対する愛をもって懇願し、称賛し、叱責するのです。
I. パウロの懇願 (12節前半):「私のようになってください」 →パウロは主にある兄弟として彼らに呼び掛けています。かつてパウロはプライドを持ち、自らを正しい者とするパリサイ人で、自身の行ない(義)が自身を救うということに信頼を置いていました。しかし、イエス様に出会った時、彼は自身を救おうとして行ってきた骨折り(行い)を捨て去りました。神様のみわざ、神様の恵みに完全に信頼したのです。その彼が、ガラテヤの信者たちに“私のようになり、律法主義から離れるように”と言っているのです。律法の行ないから解放され、神の子という立場、自由の立場をいただいた私のようになりなさいと。イエス様に対する十分な信仰をもった私のようになりなさいと。主にあって、また主によって今このようになった私のように、あなたがたもなりなさいと。
II. パウロの称賛 (12後半~14節、15節後半):「私を迎えてくれました」 →パウロが初めてガラテヤを訪問した時、ユダヤ人たちは彼を迫害しましたが、ガラテヤの信者たちは彼と彼の語った福音を快く受け入れました。パウロは何らかの肉体的な病かハンディキャップがあったようですが、それはガラテヤの信者たちにとって障害とはならず、むしろ彼を丁重に扱い、もてなし、大きな愛を示しました。
III. パウロの叱責(非難) (15節前半、16節):「それなのに…」→パウロは以前のガラテヤの信者たちの自分への対応は、イエス様からのものであること、そして福音を受け取った故の喜びと満足が土台にあると知っていました。しかしそれが今失われてしまっているのです。彼らはパウロを通して語られたみことばの真実によって幸いを得たにもかかわらず、今逆に真実を語るパウロに対して反発している(と少なくともパウロは思っている)のです。イエス様の教えに忠実であろうとするパウロは彼らに敵対視されていると感じているのです。
まとめ:主にある健全な交わりは、同じ主を見上げ、福音の真実を共有することによって継続される →私たちは福音を受け入れ救いをいただいてはいますが、信仰の歩みは日々の継続です。どのような理由であれ、主を見上げ、みことばの真実に固執することを止めてしまうならば、信仰者としての健全な歩みから外れていくのは必然です。そのような可能性が誰にでもあります。教会が不健全なクリスチャンの集団であるとしたら、神様が望まれるような交わりは不可能ですし、神様が喜ばれるような教会形成はありえません。個々のクリスチャンが、みことばの真実を土台としてブレない歩みを必要としています。そして教会は、愛をもって互いに励まし合い、忠告し合い、勧め合い、祈り合い、顧み合うクリスチャンの群れを必要としているのです。そのような教会の姿によって教会のかしらであられるイエス様に栄光が帰せられるからです。