使徒の働き 16章6~10節
I. 聖霊なる神様がドアを閉じられる時(6~8節) 完全な禁止/一時的な禁止
II. 聖霊なる神様がドアを開けられる時(9~10節)
→第二次宣教旅行に臨んでいるパウロたちはアジヤ(小アジヤの西岸の州)での宣教を聖霊に禁止され、またビテニヤの方へ行こうとした際にも「イエスの御霊」のお許しを得ることはできませんでした。エーゲ海に面するトロアスに到着した時、パウロは幻を見ます。それはマケドニヤ人が助けを求める内容でした。パウロたちは(対岸の)マケドニヤに行って宣教活動をすることを神様が導いておられると確信して出立を決定しました。(この時ルカがパウロたちに加わったようです。)
→今回の箇所では、聖霊なる神様が、とどまるようにされたり、行くようにされたりという導きを見ます。聖書の中には聖霊(御霊)の導きによって行動する人々のことが登場します。(シメオン―ルカ2:27、使徒ヨハネ―黙示録1:10; 4:2; 17:3; 21:10、イエス様―マタイ4:1、ピリポ―使徒8:29、エゼキエル―エゼキエル11:24、ダビデ―マタイ22:43 その他 ローマ8:14; Iコリント12:3参照。)
私たちは、聖霊(神様)の導きについて発言したり、祈ったりしますが、どのように結論を知り、判断するのでしょうか。「行こうとしていたら、飛行機が飛べなくなった」というようなことであれば、わかりやすいですが、聖霊の導きが常に目に見えるかたちであらわされるとは限りません。「聖霊に導かれていると感じるから、導かれている」と判断していいのでしょうか。「自分がしたいから、自分の動機が正しいから、状況が整っているから聖霊の導きである」と結論付けていいのでしょうか。結果的に実現したから「それは聖霊の導きであった」と言えるのでしょうか。私たちが頑固に自分の意思を通そうとすると、聖霊はそれをゆるされることもあるのではないでしょうか。このように考えてくると、聖霊の導きは不可解なもので、その判断は非常に難しいことのように思えてきます。
しかし、聖霊なる神様は私たちを導きたいお方であり、その導きに委ねようとする態度がある人を正しい選択・判断へと導いてくださることも事実です。(イザヤ30:21)問題なのは、私たちが聖霊の導きを十分に求めないことにあるのではないでしょうか。神様は、ご自分のお考えをわざと隠したり、私たちを陥れようとして紛らわしい選択肢を提示されたりすることはありません。私たちは、しばしば判断を急いでいるのではないでしょうか。神様が自分とは違う道を示されることを恐れて早々に決めてしまおうとしているのではないでしょうか。自分の願望に固執して、神様の導きの余地がまったくないというようなことはないでしょうか。神様は私たちが自分勝手に判断して行動してもなお豊かな憐れみによって取り扱ってくださるお方です。(神様の憐れみを逆手に取ってはいけませんが)神様は多くの場合において、ご自分のお考えを押し付けるようなことをなさらず、心ある者に導きを与えてくださるお方です。私たちにその心・態度があるかが問われているのではないでしょうか。
まとめ:聖霊の導きを求め 従う者の歩みを神様は真っ直ぐにされる →信仰生活において賢い歩みをするために、聖霊の導きは必要不可欠です。(箴言3:6; 15:21) あなたは聖霊の導きを求めていますか。そして聖霊の導きに従っていますか。私たちは、自分が思うほど謙虚ではありませんし、自分が思う以上に頑固で傲慢です。みことばにより、祈りにより、聖霊なる神様の導きを心から求める歩みへ、神様が喜んでくださる道を選ぶ歩みへと恵みによって変えていただきましょう。(信仰生活に必要な聖霊の導きについてはガラテヤ5:16,25; 6:1; エペソ6:18; ピリピ3:3; コロサイ1:8を参照。)