奥付とは、本の終わりなどに設けられる、その本の説明書きです。そこには著者、訳者、編集者、発行者などの名前、そして発行所や印刷所などが記されます。今回、ヨハネの福音書の最後の部分を学ぼうとしていますが、これは奥付(コロフォン)のような箇所と言えるでしょう。この箇所で、(すでに従順を主から求められた)ペテロは、同じく弟子のヨハネのことに意識を向けました。この場面から、イエス様に従っていこうとする時に覚えておくべきことがらを学びたいと思います。(ヨハネの福音書21章20~25節)
I. 周囲を気にし過ぎないようにしましょう
人と比較して自身の従順度をはかるな: ペテロがそうであったように、私たちも他人/周囲のことが気になるものです。幼い時から競争を強いられるのであれば、何かにつけ人と比べる傾向に陥るのは無理もありません。私たちは学歴や才能、容姿や経済力のことなどで人と自分を比較するのです。自分が優位であると思えば傲慢になり、劣っていると思えば卑下してしまうのです。そしてクリスチャンも同じところにしばしば陥るのです。イエス様への従順を考える時にも、他のクリスチャンとの比較ではなく、みことばに照らして自身を吟味すべきです。
人の批評・分析・非難はやめよ: 欠点のない人は誰一人いませんし、自分自身も例外ではないことを覚えましょう。人のすべてを知っているわけではありませんから、人のことをあれこれと分析することは賢いことではありません。人の問題を認識しても、愛をもって取り扱うことができなければ黙っているべきです。私たちは、人の歩みにコメントする前に自分がまず模範となるべきではないでしょうか。
便乗的従順・条件付き従順はやめよ: 「~さんがそうするなら、私も…」という類の、人をあてにしたイエス様への従順は信仰の行動ではありません。また「~が~だったら従います」という類の従順を神様はお喜びにはなりません。
神様にお仕えすることにおいて問題が起こるのは、多くの場合においてイエス様ではなく周囲を見始めることにあるのです。
II. イエス様のことを一番 気にしましょう
イエス様の栄光を求めよ: 人の本分は人生において神様に栄光を帰すことです。そうであるならば、神様が喜んでくださることを、イエス様への従順の動機とすべきです。
イエス様の評価を重要視せよ: イエス様は人の心を正しくご覧になられます。そして人の従順を正しく評価され、正しい報いをお与えになります。
イエス様のレベルを目標にすえよ: イエス様のあらわされた(父なる神様への)従順の姿勢をお手本にしましょう。私たちが今日イエス様に対して従順であったとしても、それが明日の従順を保証するわけではありません。従順は毎日の選択と実践です。私たちは常にイエス様に従うことに貪欲であるべきです。
III. イエス様は各人を正しく取り扱われるのですから
イエス様はペテロとヨハネはそれぞれ取り扱われました。ペテロはイエス様の御名をのべ伝え、聖書の一部となった手紙を記し、最後は殉教したようです。一方、ヨハネもイエス様のために働き、福音書、書簡、黙示録を記し、流刑の末に死を迎えたようです。
イエス様は各人に別々の役目を与えられる: イエス様はあなたにも何らかの役目を与えておられます。それが賜物であるとはっきりしているかどうかはわかりませんが、いずれにしてもそれに伴う役目がイエス様から与えられていることは確かです。
イエス様は各人を違った方法で用いられる: 役目が違うのであれば、用いられ方も当然違ってきます。仮に役目が類似していても、用いられ方が違う場合もあるでしょう。
イエス様は各人をまとめてご計画を果たされる: イエス様から与えられる役目や、用いられる方法は違っても、皆同じ主にお仕えしています。イエス様は、神様のご計画を成し遂げられるために、一人一人違うクリスチャンを見事に配置されるのです。
まとめ: イエス様は、あなたの従順を求めておられる
あなたはイエス様に従っていますか。これはあなた個人に向けられている問いかけです。従えない、或いは従うことが難しいのはなぜでしょうか。周囲の人、クリスチャンに心が向いているということはないでしょうか。イエス様は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われます。わたしに従うことに集中しなさいと仰っているのです。イエス様への従順は信仰表現の一つです。そのようにすることで人と自分を比べることから解放されます。イエス様は、あなたの従っていない部分について反省し、悔い改め、従うことを選ぶようにと招いておられます。一人一人のクリスチャンのイエス様に対する従順が教会の成長(前進)となり、祝福となります。そしてそのことにより教会のかしらであられるイエス様がほめたたえられるのです。