州総督に着任したフェストのもとをアグリッパ王(2世)とベルニケが訪問しました。フェストはパウロの件を持ち出し、今までの経緯を説明しました。ユダヤ人が問題としていることはローマの法に触れることではなく、ユダヤ人の宗教的な事柄であるが、彼が皇帝の前で裁判を受けることを望んだため彼を保護していると。パウロの話を聞くことをかねてから願っていたアグリッパは翌日彼と顔を合わせることとなります。
フェストの説明の中で、パウロが「死んでしまった…者…イエスが生きている」と主張していることについて述べていますが、今回は十字架で死なれたのみならず、よみがえられ生きておられるイエス様に改めて焦点をあて、この事実と私たちとの関連の重要性について考えたいと思います。(使徒の働き25:13-22)
I. 神に造られた人間 →イエス様の死と復活の必要性を語る上で、私たち人間の存在は無視することができないものです。人間は神様のかたちに創造された存在です。(創世記1:26-27; 詩篇139:14)人の中に良いものがあるとすれば、また人間関係において良いと思われることが表現されるとするならば、それは神様が人の中に組み込んでくださったものです。本来、人は神様のご性質を帯びた存在なのです。しかし、神様に逆らい、神様から独立(しようと)することを選んだ人間は自己中心的な存在となってしまいました。それは神様がご覧になるときには、(神様の性質ではなく)罪の性質を帯びた存在となったということです。神なき基準で生きることを始めた人間は死と滅び(永遠の刑罰)が確定した存在となってしまったのです。
II. 死んで復活された主 →神の御子イエス様は罪のまったくないお方ですから、死ぬ必要がありませんが、罪のある人間を助けるためにはどうしても死ななければなりませんでした。しかし、すべての人の罪を背負われ十字架の死を遂げられたイエス様はそのままで終わることなくよみがえられました。死なれただけでなく、復活されたことにより、神様の罪人に対する救済計画は完全なものとなりました。(使徒17:3)イエス様の死によって、人間が一番手放したいものが処理され、イエス様の復活によって、人間が一番手にしたいものが与えられたのです。(ローマ4:25)
III. 復活の主を伝える意味 →パウロはイエス様の死と復活を伝えたことにより、ある人々から反対され命をねらわれることになりました。そこまでしてパウロがこのことを伝えるのにはワケがあります。イエス様の死と復活は単に一つの事件ではなく、パウロにとって個人的な事件であったからです。パウロは復活されたイエス様と個人的に会いました。そして真実を知らされた彼の人生は大きく変えられました。イエス様によって救っていただいたパウロ、神様の前における罪のゆるしと永遠のいのちの約束をいただいた彼に失うものはありませんでした。
今 私たちは肉体をもって生きておられるイエス様を見ることはできません。それならどのようにしてこのお方の救いをいただくことができるのでしょうか。なぜこのお方が今もなお生きて(活きて)おられると知ることができるのでしょうか。イエス様は聖書(神)のことばを通して私たちに語りかけてくださいます。イエス様は霊において私たちに働きかけてくださり、聖書のことばが真実であることを悟らせ信じさせてくださいます。イエス様を信じた人の中にはイエス様が霊において住んでくださいます、ですから死んで復活されたイエス様がなお生き続けておられることを知ることができるのです。(ガラテヤ2:20)
まとめ:今なお生きておられる復活されたイエス様を信ずる者には希望がある