☆今日の出来事☆
●今日も、甦ってくださった主を讃美し礼拝するために、兄姉を集めてくださったことを感謝します。
●礼拝メッセージで、パウロとシラスは牢屋で鎖に繋がれながら、主に祈り讃美したことを学びました。また、今回の熊本地震で被害に遭った一人のクリスチャン女性について紹介がありました。倒壊した建物の下敷きになって身動きができない状況の中で、みことばを繰り返し頭に思い浮かべて励みにし、5時間後に救出されたとのこと。極限の状態になった時こそ、信仰が問われると思い知らされました。日頃の神様に対する信仰態度をもう一度顧みるように教えられました。何も出来ない状況の中であっても、クリスチャンだけは「みことばを思い出し、祈り、讃美できる」素晴らしい特権が与えられています!
●今年も3分の1が過ぎ、5月に入りました。
朝から晴れ間が広がり、午後は汗ばむくらいの陽気。昼食後には子ども達が庭で元気よく走り回っていました。
●先週ご主人と一緒に礼拝出席されたHさんから、今日も感謝の証しを聞くことができました。今朝、教会へ行く準備をしていたらご主人の方から「一緒に行こうかな」と言われたそうです。でも高齢のご両親がおられて留守番が必要な状態なので、今日はHさん一人で来られました。(先週はご両親ともデイサービスに出掛けられたとの事)今後、神様が導いて下さり、状況を整えてくださって、心が開かれているご主人も共に礼拝主席できますように。
●先週九州方面へ旅行していたW家は、皆さん元気に戻られ感謝です。各地で親類や友人の方々に証できたことをお聞きすることができました。福音を聞かれたお一人お一人の心に神様の特別なお働きがありますように。2,000kmにも及ぶ車での旅は、「奇跡的」に渋滞には全く影響なく護られたとのこと。それでも疲れが出ると思いますので、良い休みが与えられ、今週も用いられますように。
●Y先生家族は明日から山梨へ帰省します。小さな子ども達、また身重のY姉に特別な神様の護りがあり、往復の長い道のりが支えられますように。Y先生以外は5月10日までの滞在となります。山梨での交わりも祝福されますように。Y先生は一週間余りの間に2往復しますので事故などから護られますように。
●引き続き、高齢の方々、弱さを覚えておられる兄姉の為に祈りが必要です。
☆証し☆
W兄により証がありました。
『最近、神様と自分だけの関係の中で、自分が罪を犯した事柄について考えていました。罪の結果、自分の心は穏やかではありませんでした。しかし、神様の前に罪を言い表して、主イエス様の貴い血に基づき、罪を赦していただきました。それから、そのよくない行いについて思っていることを、隠さずにもう一度神様の前に出て祈りました。どのような言葉で祈ったかをはっきり思い出すことはできませんが、たぶんこんな感じだったのではないかと思います。
「これは、こうであったらいいのではないですか?」
「これはやはり古い価値観を求めている事でしょうか?」
「自分にとって難しいです。」
「どうすればよいでしょうか?」
などと正直に告げました。そうしているうちにしばらくして、ヘブル書の13章5節の御言葉が与えられました。
『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこういわれるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』
特にこの中の『いま持っているもので満足しなさい』と言う部分が強く心に響きました。また、別の訳(永井訳)では、『現在に満足しなさい』とあります。
この御言葉を通して、次のように言うべきであると示されました。
「今与えられている収入(給料・年金などすべて)で満足です。感謝です。広い解釈では、現在の家庭環境・健康状態・人間関係・仕事などすべてを神様がお与えになっていることを認め、受け入れます。それ以上のみこころにかなわぬものを求めず、自分の誤った関心や執着から離れさせてくださいますように」と。
まとめとして、神様は『私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』とおおせになり、これからも面倒を見てくださる主の御約束を信じ、おゆだねする信仰生活でありたいと願っています。』
☆聖餐式☆
今月も主が定めてくださった礼典である、聖餐式に与ることができ感謝です。いつものように会衆讃美、一人一人の祈りの時間、ショートメッセージのあと、聖餐の式に与りました。
メッセージでは「主の御身体が傷つけられ、血が流されました。①御身体が傷つけられたことは、古いものが解体されキリスト様にあって一つの身体に属すること(教会)を顕し、②流してくださった血しおは新しい契約が与えられたことを顕します。十字架の死を無視して聖なる神様との正常な関わりはあり得ません。この二つのことによって、私たちは罪は赦され神様に受け入れられました。私たちの存在(教会)が主の死を示すものです。教会は罪について死に義について活きることにより、主の死を示すことができるのです。己が活きている=(イコール)古いものが活きているということになりますから、自らを省みる必要があります。神様は私たちが生活の中で主の死を顕すように望んでおられます。『教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:21)』」と語られました。
☆本日のランチ☆