うらないの霊にとりつかれた女性が救われたことにより、「もうける望み」がなくなった主人たちはパウロとシラスを当局に訴え、不当な手順により投獄しました。
真夜中、牢でパウロとシラスの祈りと賛美の声が響く中、地震が起こりました。地震によって牢の扉がすべて開いただけでなく、囚人たちの鎖が解けました。これに気付いた看守は「囚人脱走」を想像し、自ら命を絶とうとします。パウロの呼びかけにより思いとどまった看守は、震えながらパウロたちの前にひざまずき、助けを求めました。パウロたちの「主イエスを信じなさい」という勧めに応じ、神様のことばを聞いた彼と彼の家族は、その夜のうちにイエス様を信じてバプテスマを受けました。パウロとシラスは看守によって鞭打ちの傷の手当や食事のもてなしを受けました。
物事に対応する際には“現実を見る”ことが大事です。聖書の神様を知ることができたクリスチャンは、目の前の現実のみならず、霊的現実を見ることができます。今回は霊的現実に生きたパウロたちから学びたいと思います。(使徒の働き 16:25-40)
I. 霊的現実に生きる者の姿 →不当な扱いによって投獄されたパウロたちは、神様についての真実を正しく認識していました。彼らは目の前の状況を支配される神様に目を向ける(向け続ける)ことができていたのです。彼らは牢に入れられるという状況においても神様についての認識がブレてしまうことがありませんでした。彼らには先のことはわからなかったでしょう。またなぜ神様がこのようなことをゆるされたのかもわからなかったでしょう。でも彼らにはわかっていることがありました。神様は変わることなく存在されるということ。彼らをご覧になっておられるということ。彼らのために働かれ最善をなさるということ。神様は御心に従って何でもなさる(おできになる)ということ。神様は彼らを愛しておられるということ。
パウロたちはこれらの認識を踏まえて、(表面的には最悪の状況で)正しく応答しました。彼らは目の前の状況を支配されるお方を信ずることができたのです。肉体的にも、精神的にも、そのようにはできない(しない)充分な理由がある中で、彼らは神様に祈り、賛美をささげたのです。牢の中で足かせをはめられた彼らにできることはほとんどありませんでした。しかし、彼らは神様の前にできる唯一のこと、そして最高のことをしたのです。神様がどのようなお方であるかを正しく認識していた彼らは、このお方を信じ、お頼りし、このお方に従い、ほめたたえ、正しいことを選択し、ベストを尽くしたのです。彼らには霊的な視力があっただけでなく、それによって得られた現実に基づいて選択し行動する意思がありました。神様を愛する彼らは、この状況下で周囲の人々を愛し、助け、導くことができました。彼らの祈りや賛美は、まことの神様の存在を他の囚人たちに伝えました。また自殺をはかった看守、そして彼の家族にみことばを語り、イエス様に対する信仰へと導きました。
II. 霊的現実に生きる者の祝福 →目の前の状況に関係なく、神様に目を向け、神様を愛し、尊んだパウロたちを、神様は尊んでくださいました。彼らの祈りと賛美を神様は確かに聞いておられ、彼らの心をご覧になっておられたのです。神様は彼らのためにお働きくださり、パウロたちは神様のみわざを肉体的にも霊的にも体験しました。(適時な)地震や、その結果牢のとびらが開いたこと、囚人の鎖が解けたこと、またそれにもかかわらず囚人が一人も逃げなかったこと、また看守の心が揺さぶられ、家族と共にイエス様を信じて救われたこと、看守がパウロたちをケアし、もてなす人へと変えられたこと等が挙げられます。これらはすべて神様のお働きによることです。神様を愛し、霊的現実に生きる彼らのために神様は働いてくださり益となることをしてくださったのです。(ローマ8:28)
まとめ:霊的現実に生きる者は、信仰の実践をする者である →パウロとシラスは霊的現実を正しく認識し、正しく応答しました。彼らには神様が御心を行ってくださるという確信があったはずです。クリスチャンの信仰は、生活のあらゆる場面において(特に危機的な状況において)試されます。その場面で、霊的現実を踏まえて信仰を実践すること、それがあなたには求められているのです。聖書のみことばを知ること、覚えること、聖書の教理を知ることも大事です。しかしそれ以上に大事なことは、神様のみことばに生きるということです。(神様についての真実を含めて)学んだみことば、知っているみことばを自分の生き方に(状況への対応に)反映させましょう。霊的現実を知って、信仰を働かせましょう。信仰を役立たせましょう。(ヤコブ2章)神様はあなたにみわざをあらわしてくださり、またあなたを通してあらわしてくださいます。