1.必要が与えられる
2.外敵から守られる
3.喜び・楽しみがある
これらは人間が幸せな生活を送るための必須事項と言えるのではないでしょうか。しかし、問題となるのは、人間が罪を持った存在であるため、何かが欠けてしまっているということです。
私が最近経験したことにおいて、必要が生じました。それは痛みからの解放です。しかし、それは私にとって一番の必要ではありませんでした。私たちは正しい認識をもっていないと、状況に対して誤った反応をしてしまい、一番に必要となるものではないものを求めてしまいます。「霊的に死んでいる」人間は、霊的必要を求めません。求める必要というと、世の中のこと、肉体的なこと、精神的なことなどです。私たちが、必要を得ようとする場合において、供給する側にはそのための備えの充実が求められます。病気の場合であれば、その必要を満たすための病院、そして充実した医師スタッフと設備とが求められます。しかし、人間の供給には限界があります。霊的な必要は神様からの供給のみとなります。
神様は供給してくださるお方です。一般的に(広い意味において)神様は必要を供給してくださいます。(マタイ5:45; 使徒の働き14:15~17; 17:24~25)また神様は、私たちの生活における必需品を供給してくださいます。(マタイ6:31~33; ピリピ4:19; IIコリント9:8)そして、私たちにとって何よりも重要な永遠のいのちを供給してくださいます。(ヨハネ3:16)
一方、人間は供給することに限界があります。私たちは、愛することにおいても、実力においても不足しています。(ルカ9:40, 13~14; 10:30~37)また霊的ちからにおいて欠乏しています。私たちが出来ることは、神様からのものを人に配達するのみです。
神様の供給と人間の供給の現実を踏まえた上で、私たちは、主によって供給することを実行する必要があります。私たちに求められているのは、自分のもっているもの(与えられているもの)を提供することです。子供が人の助けをした例を聖書の中に見ることができます。(II列王5:2~3; ヨハネ6:9)限界がある私たちですが聖霊の助けいただく時に供給のお手伝いができます。(ヨハネ7:37~39)そして喜んで人に与えることを神様は喜ばれます。(IIコリント9:6~7; 使徒の働き20:35)
神様により、私たちの需要は供給されました。ですから今度は神様から供給されたものを人々に供給する者となるべきなのであり、またそのようにできる者とされているのです。