イエス様はこの世の中が提供できないような平安を与えてくださると約束してくださいました。(ヨハネ14:27) マタイの福音書24:5-8に記されているように、世の終わりには難しい状況が起こってきます。イエス様を名乗る者があらわれたり、戦争・紛争、そして飢きんや地震が起こりますが、それはさらに厳しい状況の前触れにすぎないのです。“安心・安全”ということばが氾濫している昨今ですが、世の中のものはどれも確かなものがない中でのことです。私たちクリスチャンは、神様から与えられているものを確認することによって確かな安心を経験することができます。
イエス様が死から復活された日、弟子たちはユダヤ人たちを恐れていました。主が殺された今、自分たちも捕まえられ殺されるという最悪の事態を想定していたからでしょう。それはイエス様を正確に認識することができない人の姿です。復活されたイエス様は彼らにあらわれてくださり、「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19)と仰いました。彼らには安心が与えられ、喜びが与えられました。イエス様が「彼らの中に」来られたことは、同時に聖霊なる神様の直接的なお働きがあり、その結果として平安が弟子たちにもたらされたということです。ルカの福音書では同じ場面をより詳しく記していますが、イエス様が会ってくださったことによって、弟子たちは、恐れが取り除かれる一方で、確信が与えられ、平安が与えられ、喜びが与えられました。(24:36-43)
私たちがおそれるべきお方は唯一のまことの神様です。そして私たちはまことの神様の前に、イエス様にあって貴い存在であることを忘れてはなりません。(マタイ10:28-33) イエス様の十字架の死は、神様との平和な関係の土台となりました。(コロサイ1:20-21) ですから私たちは日常生活における心配を否定する必要があります。むしろ神様に祈りと願いと感謝をもって私たちの求めることがらをお伝えすることです。(ピリピ4:6) 神様は私たちの思いを超越したご自身の平安により、イエス様にあって護ってくださるのです。(ピリピ4:7) その特権、その幸いを覚え、今週も歩ませていただきましょう。