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聖書は今まで最も迫害を受けた書物であると思います。ローマ皇帝は、クリスチャンの信仰が聖書に基づいていることを知り、聖書を禁止したり、絶滅しようと計画しました。またローマ・カトリック教会は、一般の人々が聖書を読むことに制約を課したり、許認可制にしたりしました。ある人々は、聖書を信じたために命を奪われることさえありました。しかし、これらの迫害にもかかわらず、聖書が今まで保存されてきたことは、神様の不思議な御手なしには説明できません。クリスチャンは聖書を信じています。今回は、イエス様が聖書についてどのような主張をしておられるかを確認したいと思います。
I. 聖書のことばは立ち続ける(ヨハネ10:35)
この箇所で言われていることは、聖書には絶対的な正確さと権威とがあるということです。「廃」は、本来「廢」という字が使われ、襲撃されてダメージを受け、使い物にならなくなった家を説明するようです。そこから、状態が悪化する、無くなっていくという意味を持つようになったようです。世の中においては、以前は良いとされ、採用されてきたことが行われなくなることがあります。或いは、以前は良い状態・性質であったものが劣化し損なわれていくことは常です。しかし、聖書はその類ではありません。世の中において、聖書の評価は低いかもしれませんが、それは内容が悪化したというわけではないのです。
II. 聖書のことばはイエス様を証しする(ルカ24:44前半、ヨハネ5:39)
「モーセの律法・預言者および詩篇」は直接的には旧約聖書、ひいては聖書全体を指す表現です。(ルカ24:27) 律法の中で、イエス様の預言者としての役割が記されています。(申命記18:15-20) 詩篇22篇やイザヤ書53章ではイエス様の受難について記されています。また詩篇16篇ではイエス様の復活について記されています。
聖書はイエス様の主張を継続的に証しするものです。聖書自体のメインテーマがイエス様であるからです。
III. 聖書のことばは成就する(ルカ24:44後半、マタイ5:17~18)
預言者たちが、イエス様について語ったことは、すべて実現しなければならないのです。(ルカ24:25) イエス様は苦しみをお受けにならなければならなかったし、その後に栄光に入らなければならなかったのです。(同26節) 神の御子がそう仰るのであれば、絶対そうならなければならないのではないでしょうか。
イエス様ご自身が律法のすべての面における成就であられます。聖書に記されていることをイエス様は実行され、また聖書の意味を十分なかたちで明らかにし、そのご生涯と教えによって完結されたのです。イエス様は道徳的律法を完璧に守られ、律法が型・象徴として示すすべての具体化/具現化となられることで儀式に関する律法を成就され、神様の完全なさばきを個人的に適用されることによって裁判の律法を成就されました。イエス様は聖書のことばを成就され、ご自身が成就となられたのです。
聖書は、細かい部分に至るまで間違いがなく、絶対的な権威(不変性と永遠性)があることを、イエス様は主張しておられます。
まとめ: イエス様は、聖書が神のことばであることを宣言しておられる
世の中のことがらは移り変わり、あらわれては消えていきます。しかし、聖書は廃れることが決してありません。聖書のことばはイエス様ご自身を証しするものです。聖書は神の御子について語っている神のことばであると言うことができるということです。聖書に記されていることは、一つ残らずイエス様によって果たされ、これからも果たされていきます。これらのことのゆえに私たちは聖書を信じるのです。