投票によって代表を選ぶ、或いは最近行われたように投票によって「構想」についての賛否の意思表示をするような場合において、有権者の側の意思決定には様々な理由が存在します。ある人は「この人は信頼できる、きっとやってくれるだろう」という期待のもとに一票を投じ、ある人は「この政策はきっと自分たちの生活を良くするだろう」と思い一票を投じるかもしれません。問題なのは、人間自身にも、人間が行うことにも、不確実な部分が多いということです。投票した人が期待を裏切るような人物であったり、約束を破ったりすることは珍しいことではありません。また打ち出された計画が実現しないこと、また実現した計画がよい結果をもたらさないことも多々あります。一方 この世界を造られ生きておられる神様は人間のようなあてにならないお方ではありません。神様の計画されたことは、必ず実行にうつされ、良い結果をもたらすものです。今回は神様のご計画を受け入れることの重要性を確認したいと思います。(使徒の働き11:1~18)
I. 神様のご計画を受け入れた者への非難 (1~3節) →前の章において、コルネリオをはじめとして多数の異邦人にみことばが語られ救われたことを見てきました。このことのためにペテロは神様に使われ、異邦人に対する宣教の本格的な拡大という大きな節目を迎えました。エルサレムにいるクリスチャン達にもカイザリヤでの出来事が伝えられ、異邦人たちも神様のみことばを受け入れたということを知ったわけですが、ある人たちは、ペテロが異邦人(割礼のない人々)と交流したことへの不快感をあらわしました。異邦人にもみことば語られ、救われたことは喜ばしいことであるはずですが、ある人たちは、自分たちの伝統や習慣にとらわれすぎてしまい、神様の進めておられるご計画を柔軟に受け入れていくことが困難であったようです。いくらか時間をかけて神様のご計画を受け入れていったペテロでしたが、その彼が今度はまだ受け入れることができない人たちから非難をされることになったのです。人間的な部分のみで物事(実行にうつされた事)を判断しようとするならば、このような非難の声はクリスチャンの間においてもしばしば起こることではないでしょうか。
II. 神様のご計画を受け入れた者の説明 (4~17節) →ペテロはヨッパにおいて見た神様からの幻を通してメッセージを受け取ったこと、一方コルネリオにも神様からメッセージが伝えられたこと、さらに自身を通して神様のみことばがコルネリオ達(異邦人)に伝えられたこと、そして異邦人達も自分達(ユダヤ人)と同じ賜物(救いに関わる祝福)を受けたことを順序正しく語りました。ペテロの強調したポイントは、この一連のことは“神様の主導による”ということと、“神様がなさることを妨げることは不可能である”ということです。神様のご計画に身を委ねた者にとって、その行動を非難されることは嬉しいことではありませんが、必要とあらばどのような経緯でもって神様が導かれたかを丁寧に説明することも賢明ではないでしょうか。
III. 神様のご計画を受け入れた者の応答 (18節) →ペテロの説明を聞いた人たちは沈黙しました。ペテロに対する非難の余地がなくなったということでしょう。そして救いのご計画を異邦人にも適用された神様を賛美しました。ペテロの説明により、すべての人がすべてを理解し納得したということではないでしょうが、異邦人に対する神様のご計画につついて受け入れ、一応の決着を見たと言えるでしょう。
まとめ:神様のご計画を受け入れるとは、信仰によって生きるということである →今回の箇所で教えられることは、神様から出ている計画は受け入れるべきであること、そして神様の救いの計画において差別はないということです。今回の事例はクリスチャン同士の中で起きたことですが、クリスチャンがクリスチャンでない人と関わっていくことにも適用できるものです。神様の救いのご計画を受け入れたクリスチャンはクリスチャンでない人から非難されることもあるでしょう。そして神様が機会を与えてくださって自身の信仰について説明する(証しする)こともあるでしょう。神様のお働きによって相手が神様の救いのご計画に正しい応答をするならば、その人は救われた者として神様を賛美することになるでしょう。神様の人間に対する救いのご計画にも、クリスチャンの歩み(教会の歩み)における神様のご計画にも、信仰による応答が求められます。それはすべてを理解できない、知りえない人間であるが故に必要となるものです。その信仰をもったクリスチャンは神様のご計画において御心がなるようにと祈ることができます。また神様のご計画における自分の役割を見極めて積極的に参加していくことができます。私達に必要なのは、ご計画を確実に、そして益のあるものとして実行される(私たちの想像と理解をはるかに超えた)神様への信仰です。