6月19日 「神のみこころなら」の本意

パウロはコリントで一年半滞在した後、シリヤのアンテオケに向けて旅立ちました。彼はコリント東部の港町であるケンクレヤで髪をそっていますが、これは彼が神様に対して何らかの理由で誓願を立てていたということです。彼は途中のエペソまではアクラとプリスキラと一緒でした。アクラとプリスキラはエペソでテントメーカーとしてのビジネスを始め、後にエペソのクリスチャンの集会の場所として自宅を開放したようです。パウロは、例のごとくユダヤ人の会堂に入り、人々と論じました。しかし、今回のエペソ滞在は短期間で、エペソの人々には「神のみこころなら」という条件付きで、戻ってくることを約束しています。パウロはカイザリヤまでの船旅を経てエルサレムに到着します。彼がこの時にエルサレムに来た目的は色々と考えられます。誓願の期間の終了に伴い神殿に行くことや、エルサレムの教会に献金を届けることなどです。そしてパウロはこの宣教旅行の出発点であるアンテオケに再び戻ってきますが、まもなく、再びエペソを目指し、行く先々でクリスチャンを励ましていきます。これがパウロの三回目となる宣教旅行の始まりです。(使徒の働き18:18~23)

今回の箇所の中で、パウロがエペソの人々に言った「神のみこころなら」という言葉に注目したいと思います。神のみこころとは、神様のお考えになるところであり、それは神様がよしとされ、お喜びになられるところです。神様のご性質から考える時に、みこころは常に正しく、聖く、完全で良いものであることがわかります。「神のみこころなら」という表現は、クリスチャンが使うものですが、どのような意味で使われるべきものなのでしょう。

I. 神様を優先する →私たちが何かをする上では、その理由や動機が存在しますが、その場面において自分の気持ちや感覚ではなく ①神様のお気持ちを優先させるということです。また自分の都合や利得、そして好みではなく ②神様のお考えを優先させるということです。パウロにはエペソに行きたい気持ちが以前からありましたし(16章)、そのエペソに、ついに来ることができ、自分が必要とされていることを喜んだでしょう。彼にはエペソに留まりたいという充分な理由があったはずですが、神様のみこころを優先させたのでした。

II. 神様を信頼する →「神のみこころなら」の中には、自分がどのような者であるかの認識があります。それは ①自分は信頼できない者であることの認識です。自分は欠けた者であり、知らないことがあり、できることには限界があることの理解と謙虚さです。“絶対に~する、できる、しない、ならない”というようなことは言うことができないという意識です。自分の予測・予定はあてにならず、計画を実行するための能力も完全ではなく、そもそも自分の計画が、正しいもの、最善なもの、良いものであるかさえわからないという思いです。このような認識の中には自信は存在しません。一方、「神のみこころなら」の中には、神様がどのようなお方であるかの認識があります。それは ②神様は絶対的に信頼することができるお方であることの認識です。自分は出来なくても、神様にはすべてのことが可能である、自分はわからなくても、神様はすべてのことを知っておられる、神様はすべてのことを正しい・良い意図をもって、良い目的のためになされるという認識です。自分には神様のされる方法や理由がわからなくても、神様にお委ねするという信仰態度がそこにあります。自信ではなく“神信”がそこには存在します。

神様を優先し、神様に信頼するとは? →神様のみこころを受け入れ、委ねることは、自分の思いや願望を持つことを否定することではなく、物事に対する計画や準備をしなくてもよいということでもありません。日々の生活においては想定をし、予定をたて、準備をすることを私たちは繰り返しますし、またそのようにする責任があります。その責任のある私たちが「神のみこころなら」という視点に立つときには、“何がなんでも~するんだ”とか、“~は絶対にしない”という頑固さ・意地・信念というものを放棄するということです。自分にはちからはないことを認めつつ、自分を生かし、自分の存在を可能としておられる神様の恵みによって責任を果たさせていただくという態度を持つことです。(或いは、神様のみこころではないことについては同じ態度で辞退するということです。)(参考箇所:ローマ1:10; 15:32; Iコリント4:19; 16:7; ヘブル6:3; ヤコブ4:15; Iペテロ3:17)

まとめ:「神のみこころなら」を大前提にして歩みましょう →私たちは神様によって造られ、生かされ、救われ、導かれています。神様がすべての条件を整えてくださっていることにより、私たちは今日 存在することができるのです。そうであるなら、自信を放棄し、神様の前に謙虚になり、神様のお考えに沿う歩みをしようではありませんか。この世の中において、神様のみこころを選ぶことは必ずしも簡単なことではありません。(聖書はそれが簡単であるとは約束していません) しかし、そのような選択・姿勢を神様が喜んでくださることは確かです。神様のみことばから、神様のお考えを心に蓄えましょう。そして、みことばに基づいて決断をし、計画を立て、状況・結果を受け入れることができる信仰者とならせていただきましょう。

 

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