「全世界を手に入れても」→あなたには全世界を手に入れようなどという野望はないかもしれません。しかし、多くの人は“もっと欲しい”という思いを持っています。世の中には長者番付に名前が載るような資産家と言われる人々がいます。仮にあなたがその一人であったとしても…ということを考えてみましょう。もう少し庶民的な言い方をすれば、“自分が望むものが手に入っても”、“自分が望む人生を送っても”となるでしょうか。
「まことのいのちを損じたら」→あなたが、どんなに良いものを、多くのもの、称賛に値するものを手にしたとしても、いのちを失ったらどうなるのでしょうか。
一人一人がもっているいのち、それは神様から与えられたものです。あなたは自分で生きているのではなく、神様に生かされているのです。神様はいのちを与えることができます。そしてお取り上げになることもできます。なぜなら神様に人のいのちの所有権があるからです。
この「いのちを損じ」ることの一つの意味は、死んでしまうことです。この世の中でどのようなものを手に入れたとしても、死んでしまったらどうなるのでしょうか。
「何の得がありましょう」→あなたが、自分の望むものを手に入れたとしても、死んでしまったら、それを使うことも楽しむこともできません。手に入れたものがどんなにすばらしいものであったとしても、生きているという前提がなければ無駄になってしまいます。
“だから、健康で長生きしましょう!”と聖書が言っているのではありません。この聖書のことばは、もっと深刻な話をしているのです。
「まことのいのち」とは何でしょうか。それは、今あなたが生きることを可能としているいのちという意味だけではなく、この世界を造られた神様との正しい関係の中で生きるいのちのことも言っています。
人間は神様に造られ生かされながら、神様に背を向けました。その生き方を聖書では、罪と言っています。罪をもった人間は聖なる神様と交流ができなくなりました。罪をもった人間は死ぬことが定まり、死後の罰が定まりました。それは、人間が神様と悪い関係になったということです。「まことのいのちを損じた」、失ったということです。そのため、人間はこの世の中で何を手に入れようが、本当の幸せを手にすることができなくなってしまいました。これが現実であるならば、人間は何を優先させるべきでしょうか。「まことのいのち」の確保ではないでしょうか。
「そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう」→人間が持っている何かで「まことのいのち」を買い戻すことはできません。神様の前に罪のある人間がゆるされて、永遠のいのちの約束をいただく、天の幸せな国に入れていただくために、神様に差し出すことができるものは何一つないのです。神様の前における人間の罪は、想像をはるかに超えて重いものなのです。あなたは、神様との関係正常化ということにおいてまったく無力なのです。
ではどうすればよいのでしょうか。「まことのいのち」を得る方法、あなたが救われる方法はあなた以外から来なければなりません。しかもその助けはあなたが死ぬ前に必要となるのです。
感謝なことに神様は、あなたが助かる方法を準備してくださいました。神であられ罪のまったくないイエス様をこの世界に送ってくださったのです。イエス様は十字架刑を受けられました。それはあなたの身代わりに罰を受け、死なれたということです。あなたの神様に対する罪がゆるされ、あなたが神様との正しい関係の中で生きるいのち、「まことのいのち」を手にすることができるためです。
あなたがこのお方を自分の個人的な救い主として信じるなら、救っていただけます。罪をゆるしていただいて、死後永遠に神様とともに生きることができるいのちをいただくことができます。
神様はあなたに今いのちを与えておられます。今生きている間に、“次の世界”への準備が必要です。神様はあなたに救いの方法を与えておられます。悔い改め、イエス様を信じて救われることが今必要です。(IIコリント6:2)
まとめ:あなたは、たとい(生涯において)何も手に入れることができなくても、まことのいのちを手にしたら、永遠に幸せです→この世の中で、社会生活における準備はできていても、神様との関係が正常化されていないのであれば、自分を生かしておられる神様、そして救いの方法を提供しておられる神様を無視して生きることは無謀です。今日正しい選択を神様の前にしましょう。