聖書の中には理解することが難しい教えがいくつかあります。その一つは“父なる神様と御子イエス様はそれぞれ人格をもっておられ、それでいて一つであられる”という教えです。私たちには理解できなくても、この教えは重要であり、そのまま受け入れるべきものです。今回の箇所(ヨハネの福音書5章19~30節)では御子イエス様の、父なる神様との関係について学ぶことができます。そしてこの箇所からイエス様がどのようなお方であられるかを明確に知ることができます。
I. みわざにおいて一つであられる (19~20節)
今回の箇所では、ほとんどすべての節に「子」が登場します。イエス様の御子としてのお立場が強調されているということです。イエス様は完全な御子として(単独ではなく)父なる神様と完全なご意志を共有され行動されます。イエス様のお働きとは、父なる神様の御心を行い、また語ることであることがこの福音書にしばしば記されています。(4:34; 5:30; 8:28; 12:50; 15:10)意志・行動において父なる神様と完全に一つであられる御子イエス様は、父なる神様と同等の性質を持ち、同じ目的を持ち、その上で従うお立場にあります。父なる神様がなされること行うことが可能なイエス様は、父なる神様がそうであられるように偉大です。
II. 人にいのちを与えるみわざにおいて一つであられる (21、24~26、28~29節)
神様は人に、霊的に、また肉体的にいのちをお与えになることができるお方です。これらの箇所では、いずれかの意味で、或いは両方の意味で“いのちを与える”ことが言われているようです。父なる神様がいのちをお与えになるように、御子イエス様も死者にいのちを与えられます。神様は霊的に死んだ人も肉体的に死んだ人も、癒すことができ、生かす(活かす)ことがおできになります。新しく生まれさせていただいたクリスチャンは霊的に活かされていますが(コロサイ2:13)、将来における肉体的復活をなお待っています。(ピリピ3:20-21)
ご自分でいのちをもっておられるのは神様だけです。このお方にのみ創造のちから、そして再生のちからがあるのです。
神様からの新しいいのちを受け取ることができるのは、イエス様を自分の救い主として信じた人です。(ここで言われている「善を行った者」とはイエス様を信じた人のことです。)
III. さばきのみわざにおいて一つであられる (22~23、27、30節)
父なる神様は御子イエス様にさばきの権威をお与えになりました。それはすべての人が、父なる神様を敬うように御子イエス様を敬うためです。イエス様を受け入れることによってのみ、父なる神様を敬うことが可能なのです。この章でイエス様を非難しているユダヤ人たちこそが、神を冒涜しているのです。(神であられ)人であられるイエス様は、人をさばく資格を持たれ、人の必要、そして人の視点を理解されるお方です。(へブル2:17)御子イエス様のさばきの標準は、父なる神様の標準と合致するものです。なぜならそのさばきは、(御子を遣わされこの働きを委託された)父なる神様のことばと御心によるものであるからです。このことは19節から語られてきている“父なる神と同等”を示すものでもあります。
まとめ:イエス・キリスト様は私たちが信ずべき唯一の神である
父なる神様と御子イエス様が一つであられるということは、イエス様が神であられるということです。イエス様が神であられるということは、イエス様には神としての権威があるということです。そしてこのお方を知り信じることは、父なる神様を知り信じるということです。イエス様が神であられるのかそうでないかは重要な問題です。真実を知ることができ信じることが出来る人は幸いです。