「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) この聖書のことばには目に見えるものと見えないものが含まれています。「神」、「ひとり子」、「与え」られたイエス様、「永遠のいのち」は見えないものであり、「滅び」も地獄という意味においては見ることができません。また「愛」も見えない場合が多々あります。一方、「世」を構成しているものや、「信じる者」は見ることができますが、「世」を支配している悪魔の存在は見ることができません。
私たちは見えるものには敏感であり、見えないものには鈍感であるという傾向があります。聖書が教える、罪のゆるし・新しく生まれること・永遠のいのち・神の子とされること等は必ずしも目で確認できることではありません。しかし、心において信ずる機能、つまり信仰によって見えないものを見、受け入れているのです。そして、見えないものは、道徳性の(向上による)変化や、神様のお考えを第一にする生活等で表されていくのです。
神様は段階的にご自分の約束(みことば)を明確にしていかれます。生まれつきの人間は、体が心の欲求に従う、「血肉のからだ」を持っています。それは常に罪を犯す可能性をもったからだです。(Iコリント15:44-45) 真の神様に出会い、イエス様による救いをいただいたクリスチャンは、やがて霊に適応したからだ、つまり全面的に神様に従う人へと変えられるのです。(その過程においてクリスチャンはより従順な聖化の段階を進みます。) その時に与えられる復活体は、世の中のスポーツ選手が要求されるような努力を必要とはしない (同9:24-27) 従順なからだです。天に国籍をいただいたクリスチャンはまもなく「栄光のからだ」へと変えられます。(ピリピ3:20-21) そのような驚くべき約束をいただいたクリスチャンは、現在の見えることにおいて失望するのではなく、まだ実際には見ていない約束を与えてくださっている神様に望みを置いて生活しようではありませんか。