ある人々は権威ある立場に置かれます。その人々が期待されている務めを果たすのであれば、関わる人々は幸せになれるでしょう。しかし、その権威が濫用されるとすれば、関わる人々は苦労し、不幸が押し寄せることになります。イエス・キリスト様はどうなのでしょうか。今回はイエス様の権威について考えます。(ヨハネの福音書5章9節後半~18節)
I. イエス様は肉体的なことへの権威をもっておられる (9節後半~13節)
前回は38年病に苦しんでいた人が癒された場面を学びました。彼はイエス様の仰ったとおり癒され、床を取り上げ歩き始めたのです。
9節の後半は「ところが」で始まります。これはとても残念な表現です。イエス様がなさったことに「ところが」が続くのですから。
癒された男性はどのようにして自分が直ったのかを、自身の知る範囲で説明しました。ユダヤ人たちは、病を癒すことがおできになる、超自然のちからをもっておられるイエス様をあがめ賛美するのではなく、また癒された男性について喜ぶのでもなく、安息日に床を取り上げたことを責めたのです。
II. イエス様は霊的なことへの権威をもっておられる (14節)
ユダヤ人たちは自分達の言い伝えや考えを大事にする一方で、イエス様は、この男性の肉体的なことのみならず、霊的なことへの心遣いを示されました。“罪を犯し続けてはいけない”と仰ったのは、彼の病と罪には関連性があることを示すものであると思われます。神様のみわざを体験していながら、神様に対して正しい応答をしないとするならば、人に希望はなく、災いを招きよせるのみです。(このことは広い意味においてすべての人に適用されることです)この男性が認める必要があったのは、イエス様が単に肉体的な癒しを与えられるだけでなく、霊的な癒し(救い)を与えるちからをもっておられることです。
III. イエス様は常に必要なことを行なう権威をもっておられる (15~18節)
ユダヤ人たちは、イエス様がこの男性を癒したことを知り、イエス様を迫害しました。彼らは床を取り上げた男性にかこつけて、安息日に癒しのわざをされたイエス様を訴えているのです。彼らは自分達の伝統を重要視するあまり、喜ぶべきことも喜ぶことができないのです。これは彼らが宗教的な偽善者であることを示しています。表面的なことには目がいっても、神様へのまことの礼拝には目がくらまされているのです。
安息日に良いことをすることは禁止されていません。ですからイエス様は神の律法を破ってはいないのです。
神様は六日間で創造のわざをなさいましたが、今も神様のわざは継続しています。天体の動きには一日の休みもありません。人が手を切ってしまったとき、その瞬間から神様の癒しのわざは始まっています。神様の継続的なお働きがあるため、私たちは存在することができるのです。
御子イエス様も同じように働いておられます。必要なことを何でも行なうちからをもっておられます。なぜならイエス様も神であられるからです。
ユダヤ人たちは、イエス様が安息日に関わることで律法を破っているとしてそのことを深刻に受け止めましたが、イエス様がご自分の神性について主張なさったことについては神への冒涜として(さらに大きな問題として)受け止め、それはイエス様への殺意にまで発展しました。
まとめ:権威あるイエス様の前に謙り、信じ、従いましょう
イエス様を信じるとは、イエス様を“奇跡を行なう方”(ミラクル・ワーカー)として認めることではありません。イエス様には確かにそのようなちからもあるのですが、イエス様はそれ以上のちからをもっておられるお方です。神であられ、すべてを支配され、お考えのままに何でもなさることができます。私たちはこのお方によって造られた作品です。それが真実であるならば、(自分の大事とすることがらを脇において)このお方の前にひれ伏し、このお方を唯一のまことの神として信じ、礼拝し、賛美して、従うことは当然ではないでしょうか。