ある人が事件を起こすと、その人の親族や知人、近所の人、そして学生時代の同級生たちの、その人についてのコメントがニュースに流れることがしばしばです。不十分・不正確な部分はあるにしても、それらは一人の人の客観的な見方をある程度提供し証言するものです。
私たちにはイエス・キリスト様についての証言が提供されています。今回の箇所ではイエス様ご自身がこのテーマを取り扱っておられ、幾つかの証言を与えておられます。(ヨハネの福音書5章31~40節)
イエス様の何に関する証言が焦点となっているのか、と言えばこのお方が「神の子キリストである」(20:31)かどうかです。そしてこの点についてユダヤ人たちは見過ごしにすることができませんでした。イエス様はご自分の、神としてのご性質そしてちからについて証言することが可能です。そのような意味において、イエス様は他の証言を必要とはされません。しかしユダヤの法的なことを土台として、あえてこのことを取り扱われました。(ユダヤの法律のもとでは自己証言は無効であるため)
I. バプテスマのヨハネ (33~35節)
使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが光であられるお方=イエス様について証しするために来たことをすでに述べています。(1:7-8)そしてユダヤ人たちがバプテスマのヨハネのもとに人を遣わして、誰であるかを確認した際、彼は、自分が「光」ではなく、キリストではないこと、そしてこの方こそが「世の罪を除く神の小羊」であり、「聖霊によってバプテスマを授ける方」であり、「神の子」であることを証言しました。(1:19-34)
II. 父なる神様から与えられたみわざ (36節)
イエス様はヨハネの証言よりも「すぐれた証言」としてご自分がおこなっているわざを挙げています。(10:25; 14:11)これは父なる神様がイエス様にお与えになったもので、ご自分が父なる神様に遣わされたことを証しするものです。
ヨハネの福音書には7つのわざ(しるし)が記録されていますが、それらがイエス様ご自身の主張について有効な証拠であることを認識されています。人の人生のさまざまな経験におけるイエス様のちからは、イエス様が神であられ、救い主であられることを示すものでした。イエス様は、直接的に、また十分に人の緊急事態に対応することがおできになることを証明されました。
III. 父なる神様 (37~38節)
またみわざをお与えになった父なる神様ご自身が御子イエス様についての証言をされます。厳密には公の状況ではありませんが、イエス様のバプテスマの際(マタイ3:17)、そしてイエス様の御姿が変貌する場面(マタイ17:5)において「わたしの愛する子」と仰られ、イエス様が神の御子であられることを証しされました。またイエス様に対して「わたしは栄光をすでに現した」と仰られました。(ヨハネ12:28) これらの天からの(父なる神様の)声は、イエス様についての父なる神様の証しです。
IV. 聖書 (39~40節)
最後にイエス様はご自分を証言するものとして聖書のことばを挙げています。旧約の時代にソロモンの神殿が破壊された後(紀元前586年)、ユダヤの学者たちは、神殿における儀式やいけにえをささげることを守る代わりに律法の学びに打ち込みました。律法(聖書)を熟考し、書かれていることの意味を読み取ろうと努力しました。なぜなら彼らはそのような学びをすることが自分達をいのち=祝福へと導くと信じていたからです。しかし彼らはそのようにしながら聖書が示すメインテーマ(主題)を見落としたのです。聖書は、イエス様のご人格とそのお語りになったことの証しであるという点を受け止めることができなかったのです。彼らは学びには熱心である一方で、聖書の中に見ることができるイエス様の主張を拒絶しました。永遠のいのちを求めながら、その源であられるお方に信頼しようとしなかったのです。聖書のメインテーマがイエス様であり続けるにもかかわらずです。(ルカ24:44)
まとめ:みことばにはイエス・キリスト様についての完全な証しがある
私たちには神様から与えられたイエス様についての証言があります。この恵みを感謝しましょう。この証言のみことばを常に信じて受け入れましょう。そしてイエス様についての証言をさらに学びイエス様を知るものとなりましょう。またイエス様について知らされたことを日々の歩みに反映させる者(あらわす者)としていただきましょう。