1.神様の願い:すべての人が救われること(Ⅰテモテ2:4~6) →贖いとは、罪の償いをすることですが、主イエス様は罪の無いみからだをささげられました。
2.神様との和解と祝福:神様と人との間の仲介者キリスト様のみわざ(Ⅱコリント5:19~21) →ここには、二つのすばらしいメッセージが示されています。一つ目は神が和解の道を開かれたことです。神は、私たちの違反行為(罪)を怒って、責めることなく、むしろ、その責めをご自分の御子に負わせた、というメッセージです。もうすでに、罪に対するさばきを下されたので、神は今、私たちを赦し、両手を広げて待っておられます。「もう仲直りをしました。わたしのところに来てください!」と呼びかけておられます。そして、この仲直りのために、ものすごいことをなさいました。罪を一つも持っておられない方が、全人類のすべての罪を犯した者として数えられたのです。主イエス様は十字架にかかり、私たちの罪をご自分の身に負い、呪われたものとせられ死んでくださいました。 そして、もう一つのメッセージは、罪人である私たちが、キリスト様にあって神の義とされる祝福であります。21節に「私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」と書かれています。これは、受けなければいけない罰を受けなくても済むようになったことだけではありません。イエス・キリスト様の正しさを自分のものにするという祝福です。キリスト様にある祝福を、私たちはみな受けることができるのです。神の子どもとされたこと、神の国に入ることができること、キリスト様と共に世継ぎとされること、死んでも復活して、栄光のからだに変えられることなど、キリスト様にあって神の義とされた者の祝福と財産を、私たちもいただくことができるのです。それは、キリスト様のみわざの故に、私たちがキリスト様にあってのみ受ける祝福です。 罪のない方を罪ある者と数え、罪ある者を義なる者として数えることは、一見とても不公平なことです。罪ある者が罰を受けて、義なる者が祝福されることが正しいです。けれども、この不公平に見えるようなことを、父なる神様が私たちを愛するが故に行ってくださいました。すなわち、御父は、十字架上で御子なるイエス・キリスト様を罪ある者と数え、死に渡されたのです。そして御子を復活させてくださり、その死なれたのは私たちの罪の為であったことを明らかになさいました。さらに、信じる私たちがキリスト様にあって神の義となる祝福を得させてくださいました。(神の愛・キリスト様による受刑・神との和解について:ローマ書5:8~11参照) 神様の計り知れない愛と恵みを覚えて、讃美、感謝をささげましょう。
3.視よ今は恵みの時、視よ今は救いの日(Ⅱコリント6:1~2) →パウロは、コリントの信者に懇願しています。「あなたがたは、これほどまでに神に愛され、大きな恵みをいただいているのですから、これをむだに受けないでください」と。「むだに受ける」とは、中身が逃げて行って、損をして受けることです。「神の恵みをむだに受けない」とは、神の恵みを逃がさず、きちんと受けること、すなわち、神様の計り知れない恵みに圧倒されて、神様に讃美と感謝をささげ、み前にへりくだるように導かれることであります。
なぜパウロは、このように改めて懇願する必要があったのでしょうか。それは、すばらしい神の恵みの知らせを、そのまま受け取らないでいる人々がいたようです。そのメッセージはすばらしいとわかっても、自分は引き下がっておこう、という拒否感があったのでしょう。しかし、パウロは、和解のメッセージというのは、子どもがお父さんに向かって走って、その胸の中に飛び込んでいくように、素直に、純粋に聞き入れなければいけないものであると、ここで訴えているのです。あるいは、神の恵みの中に私たちを取り入れようとされる、御霊のお働きを拒まないで、その流れにゆだねるということです。((幼子にあらわされる:マタイ11:25、幼子のようになる:マタイ:18:3参照) そこでパウロは、イザヤ書を引用しています。(2節) ここでのキーワードは、「今」です。今、この恵みを受け取り、今、この救いを自分のものにしてください、という呼びかけです。恵みの時に、差し伸べられた救いの御手に応じるべきであり、明日に引き伸ばす事無く、救いの語られた日に、素直に受け入れるべきなのです。イザヤ書の55章6節には、このようにも書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」神様は、各々一人一人が恵みの福音を聞くことができるチャンスを与えてくださり、その時をつかみとってください、とパウロは懇願しています。
4.主イエス様を求める結果(エレミヤ記29:13) →私たちは、どのような時にこのような捜し方をするでしょうか。まさに大切なものを無くして、必死に探す姿が目に浮かべます。まるで主ご自身が無くしたものであるかのように表現されております。しかも徹底的な捜し方、文語訳では「一心をもて」と訳され、他の者に心を向けない態度をあらわしています。その結果は、主を見つける(文語訳:主に尋ね遇う)事となります。
新約聖書ルカ伝10章38節~42節に記された、主を切に求めたマリヤの事を思い出します。あらすじはこのようです。主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていたマリヤとは反対に、マルタはいろいろなことを心配して気を使い過ぎ、主に不満をぶつけてしまいました。主はそのマルタに対してやさしくお答えくださり、「無くてならぬものは多からず、ただ一つのみ」(文語訳)と語られました。私たちは、外側の様々の事から離れて、ひたすら内の深いところに、一つのことを求めなければなりません。そうして主イエスのもとにひれ伏すと、それが与えられます。それは主イエス・キリスト様ご自身を心にお受けすること即ち信じることです。
5.主イエス様を信じることができない原因 →①ないがしろにする(ヘブル書2:2~3):ないがしろにするとは、軽んじる、つまり自分にとって、重要でないとみなしてしまうことです。旧約聖書の民数記10章29~30節を見ますと、モーセの義兄ホバブがそのように取り扱いました。そうした理由の一つには、自分の国、自分の親族に守られるということ以外に、視野を広げることができなかったと思われます。モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに、主が与えてくださる所へ一緒に行きましょうと促しましたが、彼は自分の生まれ故郷に帰ることを選択しました。
②先延ばしにする(使徒の働き24:24~26)ペリクスは、おりを見てと言い、先延ばしをしました。 聖霊が「今」とおっしゃり、その人の心の戸をたたいておられるのに、勇気をもって臆せず立ち上がらないなら、二度と福音を聞くチャンスが訪れないかもしれません。御霊のお働きに従順でありたいものです。