私たちは、支配されること、管理されることを嫌います。自由が奪われると思うからです。しかし、幼い子供であれば、全面的に親に依存しているわけですから、支配され管理されることが幸せの条件となります。私たちも、神様に対しては全面的に依存しています。救いをいただいてもなお罪の性質が存在するため、神様に教え導かれることがどうしても必要なのです。私たちクリスチャンの中に住んでおられる御霊なる神様は私たちを支配することをお望みになられます。今回はその支配がどのようなものであるか学んでみたいと思います。
I. 御霊の支配は良いものを生み出すことによって証明される (22~23節)→御霊の実は、救われたクリスチャンの成長によって(成長の過程において)生みだされるものです。リストされている各性質(態度)は調和し、一つのものを形成しています。この実の源は御霊にあり、御霊の働きによって与えられるものです。
愛は、その対象に高い敬意と称賛を抱くことです。相手の状況・対応に関係なく、その最善を願い、ささげ、進んで自己犠牲的に仕えることです。
喜びは、神様との正しい関係にあるため「大丈夫」という感覚です。不変の神様の約束(みことば)と永遠にわたる霊的現実を土台としています。
平安は、魂が健康で表面的状況に関係なく、静かな心持ちであることを示します。これは、救いにおけるキリスト様との関係を踏まえての確信の結果です。
寛容は、忍耐することであり、他者から傷を受けた場合にも我慢して受け入れることができるちからです。
親切は、優しさであり、配慮や同情心を周囲に示します。
善意は、親切と関係し類似していますがより積極的です。心からの気前良さで、常に他者の役に立ち益となるものです。しばしばそれを受けるに値しない相手方に向けられます。
誠実は、忠実で、あてにできる、頼ることができることです。
柔和は、謙虚で優しさの伴う態度(柔らかい従順さ)で、すべての(悪の)行為を、忍耐をもって受け入れ復讐心をもたないことです。
自制は、情や欲を抑えることであり、思いと行動において貞節・純潔であることです。
これらの性質はキリスト様のご性質です。御霊は(その導きにより)これらのものをクリスチャンの内に実現させてくださいます。これらの質は律法によって抑止される必要も理由もありません。
II. 御霊の支配は“肉の十字架刑”を前提としている (24節)→これらの質(実)は、御霊が望むことであり、肉の望むことに逆らっています。肉に対してどのようにして勝利を得るか、その一つの答えは、救いを受けた時に肉の行いを悔い改めそれに背を向けた、その姿勢を継続することです。悔い改めは(回心時に)すでに完了していることを認識すると同時に、なお(肉との)戦いが終了していないことを認識する必要があります。
III. 御霊の支配は導きに委ねることが条件である (25~26節)→肉に対してどのようにして勝利を得るか、そのもう一つの答えは、御霊によって歩むということです。御霊はいのちを与えます。ですからクリスチャンは成長(聖化)のために自身を御霊に委ね、また神様にお仕えして喜んでいただくためのちからを得るために委ねることが励まされているのです。御霊によって歩むならば、他者を犠牲にしたり、怒ったり、羨んだりすることで自身の栄光をもとめようとはしないでしょう。逆に、御父の支配に委ね、御霊に従い、御子に栄光を帰すことで、神様の恵みの良い証人となることができるでしょう。
まとめ:御霊に支配される歩みの祝福を経験しましょう →御霊による支配は重荷ではなく祝福です。それがどんなに個人的に祝福であるのか、また周囲にとってどんなに祝福となるのか、そしていかに神様がお喜びになるのかを日々体験させていただきましょう。