神様は正しいお方であり、行われることは完全です。一方、人間は神様に背きました。そして、継続的に人間は堕落しています。道徳性をコントロールできない状態にあります。神様との関係において罪の問題が存在し続けており、悔い改めることがなければ、終わることのない結果を受けることになります。このような人間の清算(問題解決)のためにイエス様の十字架はあったのです。
イエス様は十字架にかかられる前のゲッセマネにおける祈りにおいて、内面的憂いと死ぬほどの苦しみを経験されました。(マタイ26:36-39)イエス様の死の苦しみの重みは、人間が経験するものとは大きな隔たりがあります。罪のある人間の身代わり(すべての人の罪を背負うこと)であるため、それは想像を絶するものであるのです。
経験的に罪を知らないお方が、身代わりとして罪とされました。(IIコリント5:21)罪を犯した者として認定されたのです。それはイエス様を信じた者が救われるためであり、私たち人間が神様の前に正しい者として受け入れられるためです。
イエス様は十字架上で、人間の代わりにのろいをお受けになりました。(ガラテヤ3:13)その結果、私たちは祝される者と変えられました。(クリスチャンの、信じて従う度合いによってこの祝福には差がついてきます。)
イエス様の苦しみには、父なる神様に捨てられることが含まれています。イエス様は私たちに代って捨てられてくださいました。また良い事のみを行われたにもかかわらず、罪人から非難をお受けになりました。そこには肉体をお取りになった故の苦しみも存在しました。
改めてイエス様の死の苦しみを覚えましょう。そして感謝と喜びをもって信仰の生涯を全うしようではありませんか。