生活においてことばは重要な働きをします。ある時はことばによって心の思いが表現され、またある時はことばによって心の思いがごまかされます。また残念ながらことばだけでは真意が伝わらないこともあります。多くのことば(情報)がある現代においてあなたはどのことばを受け入れているでしょうか。人のことばでしょうか、神様のことばでしょうか。どのことばに耳を(そして心を)傾けるかによって、あなたの人生そして死後の永遠は左右されます。今回は神様のことばと人のことばの相違が著しく表されている箇所を取り上げます。(使徒の働き12:20~25)
I. 人の偽りのことばは死をもたらす(20~23節) →捕まえたはずのペテロを逃がしてしまったことでヘロデ王(アグリッパ1世)の怒りが頂点に達したことを前回見ましたが、今回の箇所も彼が何らかの理由で怒っているのを見ます。ツロとシドンはヘロデ大王(アグリッパ1世の祖父)が建てたカイザリヤの北に位置するいずれも港町でフェニキヤと呼ばれる地域ですが、これらの町々が王の怒りの矛先となりました。住民は団結して王の侍従であるブラストに取り入り、何とかその怒りを和らげてもらうよう働きかけをしました。フェニキヤは穀倉地帯のあるガリラヤに食料の面で依存しており、“ライフライン”が切られてしまうことは死活問題であったようです。その頃 皇帝を尊んで開かれる祭りがありヘロデ王は銀で作られた服をまとい、ことばを述べました。人々は王のことばを過度に称賛し、王を神の位置にまでまつりあげました。天地の造り主であられ、まことの神であられるお方はこれを見過ごされませんでした。御使いにより、虫(回虫?)によって彼はさばかれることとなりました。
人々は王に対してへつらいと偽りのことばを投げ掛けました。人は自身の利益のためには何でもしてしまう傾向にあります。得になると思えば皆で一致団結し、嘘を言うことさえ恐れません。王は人々のことばを“素直に”受け取りました。人は自身を神の位置に置こうとする傾向があります。それはまことの神様を知らない人の姿であり、神様をおそれないで生きる人の姿です。偽りのことばで表されるように、アダム以来 神様のもとを離れてしまった人間は誤った価値観をもって歩きはじめ滅びの道へと進み始めたのです。
II. 神の真実のことばはいのちを与える(24~25節) →一方で永遠の幸いと安全、そしてまことの神様との正常な関係を可能とする神様のことばはどんどん広がっていきました。それは一過性のものではなく継続した成長です。イエス様が仰ったエルサレムに続く「ユダヤとサマリヤの全土」(使徒1:8)における宣教は拡大したということです。バルナバとサウロはアンテオケの教会からの支援(贈り物)をエルサレムに届ける務めを果たしました。(使徒11:30) 25節は「地の果て」(使徒1:8)への宣教の始まりであり、同時にサウロ(のちのパウロ)達による第一次宣教旅行の始まりでもあります。
神様のことばは普及していくものです。人の策略や世の外圧によって押さえ込まれてしまうものではありません。神様の真実のことばはその目的を達成し、効果を発揮するのです。(イザヤ55:11)同時に神様のことばは教えられていくものです。直接的な言及はありませんが、サウロ達がエルサレムを訪問した際にはみことばによる励ましや教えがなされたはずです。みことばは永遠の幸いのみならず、日々の生活における真の生きるちからを与えるものです。
まとめ:ことばの氾濫する今こそ真実のみことばを読み、学び、黙想しましょう。 →ことばの世界に生きる私たちは、それ(情報)をよく吟味しなければなりません。神様のみことばによってそれが神様のお考えに沿うものであるかどうかを考慮しなければなりません。(ことばによって多くが発信される)世の中の考え方・流行・価値観の影響を受けやすい私たちは、真のいのち、幸い、そして自由を与える神様のみことばを積極的に吸収し、自分のものとし、信仰者としてブレることのない歩みをすることが大切です。“知っているつもり”の聖書のことば、何度も暗唱してきたみことばを今一度学び直す努力が必要ではないでしょうか。