新たな職場での仕事をスタートしていく時にはわからないこと・できないことが沢山あります。仕事を覚えようとしていく中で一つのことだけに目がいってしまい、仕事全体が見えていないことがあります。また仕事に関する知識・技術が圧倒的に乏しいため、仕事のパフォーマンスの質は良いものとは言えません。
今回のイエス様による奇蹟は、四つの福音書のすべてに登場する唯一のもので、筆者ヨハネがこの福音書で目的としている、イエス様の神性をあらわすことを強めています。(ヨハネの福音書6勝1~15節)
ガリラヤ湖の向こう岸へと行かれるイエス様に多くの人々がついていきました。イエス様は彼らの動機に関係なく食物を提供されようとしています。
山(現在のゴラン高原)に登られたイエス様は、群衆を見て、弟子のピリポに“抜き打ちテスト”をなさいました。“この大勢の人々にどのように食べさせるか”と。
一方弟子のアンデレは、パンと魚をもっている少年についてイエス様にお知らせしました。
イエス様は人々を座らせました。女性や子供を含めるならば2万人ほどの群衆だったことでしょう。イエス様は少年が持ってきたものを手に取りお祈りをなさいました。そしてパンと魚を奇蹟によって増やし人々に十分に与えられました。余ったパン切れは12のかごにいっぱいになりました。
今回の「5千人の給食」の記事で、人とイエス様の決定的な違いを見ることになります。人の見ているところ、知っていること、そして行うことから人の足りなさを学び、イエス様がご覧になっているところ、知っておられるところ、そして行われるところからイエス様の豊かさについて学ぶことができます。
I. 自然の人の欠乏
見ることにおいて:人々はイエス様の「しるし」を以前も(2節)今回も(14節)見ました。
テストされたピリポは人々の多さを見ました。
アンデレは五つのパンと二匹の魚を見て考えました。
知ることにおいて:イエス様の「しるし」を見た人々の反応は“ビックリ!不思議!食べられて嬉しい!”というレベルで、イエス様についての認識は「来られるはずの預言者」でした。これは昔モーセが言ったこと(申命記18:15)に基づく認識ですが、彼らは肉体的な必要を満たす救い主(メシヤ)を望んでいたことを示すものです。
群衆を見たピリポはすぐに計算をし、“8か月分の収入でパンを買ってもみんなは食べられない”と結論付けました。
アンデレは“少年が持ってきたわずかなものでは大勢の人々にはなんの足しにもならない”と言いました。
行うことにおいて:人々はイエス様についてきました。そして今回の奇蹟の後も、イエス様を無理矢理自分達の王にしようとしました。それは彼らが自己中心的な要求ができる存在を求めていたことを示しています。
テストされたピリポは何も出来ませんでしたし、アンデレは少年をイエス様のもとへつれてくるのが精一杯でした。彼らはイエス様の奇蹟を体験し、増やされたパンの余りを拾い集めたのです。
II. 超自然のイエス様の豊かさ
見ることにおいて:山に登られ群衆をご覧になったイエス様は、人々に必要を与え、またその過程において弟子をテストすることによってご自分が何者であられるのかを示されました。
知ることにおいて:ピリポをテストされたイエス様は、これからなさろうとしておられることをご存知でした。この奇蹟を通して弟子たちがイエス様を本当の意味で知るようにとの目的がここにはあります。
イエス様はご自分についてくる人々の心の内の動機を充分に知っておられました。
行うことにおいて:イエス様がこの場所に来られた理由は、マルコの記事によると(6章)、人々に教えをなさるためでした。そして人には決してできない奇蹟をもって人々を養い溢れるほどに与えてくださいました。
人々の内面をご存知のイエス様は、彼らの誤った動機を見抜かれその場を退かれました。
まとめ:人の霊的欠乏は イエス様によってのみ満たされる
自分が神様の前に、霊的に貧しく飢え渇いていることを認識し謙っている人には希望があります。なぜなら神様が必要なものを満たしてくださるからです。自分の中での常識や自己中心的な考え方を退けて、神様のなさろうとしていることに委ね、期待し、与えられた務めを果たす者でありたいです。私たちはイエス様と同じにはなれませんが、主を知ることの豊かさ、神様の視点を持つことの豊かさにおいて成長していくことができます。それは自らの欠乏を認め全知全能の主に頼ることにおいての成長でもあります。