今朝はマルコの福音書14:10-21から人の心とイエス様のお心について考えました。
イスカリオテ・ユダはイエス様の十二人の弟子の一人でした。彼はイエス様を祭司長達に引き渡すために自ら出向いていきました。祭司長や律法学者達はイエス様を逮捕し殺すことを計画していたためユダの申し入れを喜び、お金を与える約束をしました。
一方 イエス様の弟子たちはユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りの食事をどのように準備するかイエス様から指示を求めました。イエス様は準備のためにペテロとヨハネを派遣されイエス様と弟子たちとの食事の用意が整いました。
この食事の席でイエス様は「私と一緒に食事をしている者が私を裏切ります」とおっしゃいました。それを聞いた弟子たちの間には動揺が広がりました。イエス様は聖書の予言のとおりに死に向っていかれることを宣言される一方でご自分を裏切る者の悲劇を宣言されました。
ユダは人の心を象徴していると言えるでしょう。イエス様のもっとも近い弟子の一人であり、共に食事をし、しかも同じ鉢(ボウル)から食べる間柄でありながら裏切り行為に走ったのです。善いか悪いかではなく得になるかどうかでユダの申し入れを受け入れた祭司達も罪を喜ぶ人の姿を映します。ユダは神様からの唯一の救い主を売り渡すと言う最悪の道具となりイエス様は彼が「生まれなかったほうがよかった」とおっしゃいました。神様と敵対関係にある罪人には生きていることの価値を見出すことはできません。
一方イエス様のお心はどうだったでしょうか。神であられるイエス様はこれから先にご自分の上に起こること、ユダが行おうとしていることをご存知の上で弟子たちとの「最後の時間」を過ごすことを願われました。神様は私達と交流を望まれる方です。その一方で罪の中に沈む人々の状態を見て心を痛められ悲しまれます。地上の生活で一番身近な存在であった十二人の弟子の一人に裏切られることはどんなにイエス様の心を痛めつけたことでしょう。イエス様は聖書の約束(予言)のとおりに行動していかれました。裏切ったユダと約束を守ってくださったイエス様との大きな違いをここに見ます。
ユダは「イエス様を裏切った」という説明で常に紹介される人物となりました。しかし私達もユダと同じようであるのではないでしょうか。私達は神様の計画により造られました。しかし神様の創造の目的から大きくはずれてしまいました。罪人として生まれ罪を犯す存在となり神様を無視して自己中心的に生きる者となりました。私達は神様を裏切ってしまい、「神様抜き」の価値のない人生を歩んでいたのです。そして行き先はおそろしい地獄でした。そんな私達を神様はかわいそうに思ってくださいました。そして罪の中に生きるあわれな私達に救われる方法を用意してくださったのです。神様の前に罪を悔い改めて救われたクリスチャンは神様の目的のために生きる者と変えられ「生まれてきてよかった」と心から言うことが出来るのです。邪悪な私達を救ってくださったイエス様をほめたたえます。