私たち人間は教育を必要としています。しかし何を教えられるかということはとても重要なことです。イエス様も教えることをなさいました。イエス様の教えは神様の教えであり、学ぼうとする人に益を与えるものです。(IIテモテ3:16)
今回の箇所(ルカ5:17~26)で、教えておられるイエス様には、様々な人々が近づいてきました。パリサイ人や律法の教師たちはイエス様に反対する人々としてそこにいました。彼等は知識階級に属する者たちであり、イエス様の揚げ足をとろうと躍起になっている人々です。他には群衆がいましたが、彼等の多くは興味本位の人々と言っていいでしょう。この類の人々は自身の欲によって行動する人々であり、しばしば正しい態度でイエス様の教えをいただこうとする人々の障害となる人々でもあります。最後に、救いを求める人々の存在がそこにはありました。
イエス様は、中風をわずらっている人を床のまま運び、屋上からつり降ろした男性たちの信仰をご覧になりました。イエス様は人の心を見ることがおできのなるお方です。イエス様は病の中にある人をご覧になった時、人の罪をもご覧になったことでしょう。人は個人的に、また連帯責任的に、罪から生じるところの負の遺産を受け継いでいます。病を含め、人の望まないすべてのことはその結果起こっていることです。そして個々が罪ある存在として神様との関係において責任を負うことになるのです。
イエス様は病の人に向って罪のゆるしを宣言されました。イエス様は「悪」の原因である罪を取り除いて、その結果を絶ってくださるお方です。イエス様には人の罪をゆるす権限があるのです。ゆるされた人はなお罪の性質を持ち続けますが、神様のみことばを取り込むことにより神様との正常な状態を保つことが可能となります。これにより健全な霊的歩みの中で救いのちからを体験し、神様に用いていただける者となることができるのです。