ローマに到着したパウロは、ユダヤ人の有力者たちを自分のところに招きました。そして自分が捕まえられ死刑にされる理由がないにもかかわらず、ユダヤ人たちが執拗に自分を訴えたため皇帝カイザルに上訴せざるを得なかったことを話し、今自分は「イスラエルの望み」のために囚人となっていることを話しました。この話を聞いた有力者たちは、パウロについてエルサレムから何の連絡も受けてはいないが、パウロの信じていることについて、広い範囲で非難の声があがっていることを伝えました。
今回は私たちのイエス様に対する信仰がどのように人々に受け取られているかについて考えたいと思います。
I. あなたの信仰は人々に誤解されるものである →パウロは自身の同胞(ユダヤ人)に対して何か悪いことをしたということでもないのにローマ人に引き渡されたと語りました。罪がないのにそうなったのは、(どのような意味であれ)ユダヤ人たちがパウロについて誤解していたからです。時の宗教指導者たちは、パウロの教えを受け入れることができず感情的な対応となりそれに影響された人々が事実をよく知らないままパウロを悪者と決め付けたということもあるでしょう。
日本人のクリスチャンとして信仰を守ろうとするならば、確かに集団の和を乱し、慣習にそむかざるをえないこともあります。また信仰ゆえ他の大多数とは違う行動・選択をするために誤解をされることもあるでしょう。まことの神様を認めなければ聖書の教え、そしてそれを土台とした生き方を理解できず誤解されることは必然です。不必要な誤解は取り除く努力をしなければなりませんが、その一方で誤解されることも覚悟しておかなければなりません。
II. あなたの信仰は人々の希望とするところである →クリスチャンがすでに持っている希望、イエス様にある幸いは、実はすべての人が手に入れたいものなのです。誰でも幸せになりたいという願望を持つものですが、人々が追求している幸せは一時的・部分的なものばかりです。これらはいつまでも真の満足を提供することなく、反って人々を究極の幸いから遠ざけています。まことの神様の前における罪の問題の解決、死とその後の問題の解決は究極の幸いを永遠にわたって可能とします。人々はそれを手にする方法を知らなければなりません。そのためにクリスチャンは、イエス様には希望があるというメッセージが人々に伝わるよう工夫する必要があります。
III. あなたの信仰は人々に非難/反対されるものである →人々のクリスチャンに対する誤解は、しばしば非難や反対へと発展します。クリスチャンにはイエス様(神様)を愛するがゆえに、すること/しないことがあります。結果的にそれらの行動が人々にとって不利益となったり迷惑となったりすることもあるでしょう。イエス様を愛すれば愛するほど、イエス様が喜んでくださることをすればするほど、世の中の人々をあたかも憎んでいるかのように見られてしまい、強い反発を招くこともあるでしょう。クリスチャンを非難し反対するのであれば、それはイエス様を非難し反対していることになります。不必要な非難や反対は避ける努力をしなければなりませんが、一方でイエス様に対する忠実さゆえに受ける反発も覚悟しておかなければなりません。
まとめ:あなたの信仰の歩みはイエス様を映す鏡である →あなたの生き方(生き様)にイエス様があらわされているとするならば、誤解や非難や反対があっても何の問題もありません。あなたの信仰の歩みに、イエス様にある希望があらわされているならば素晴らしいことです。信仰者であるあなたに対する人々の反応を、あなたはコントロールすることはできませんが、自身の歩みを通してどのように何を人々に発信しているかという責任はあなたにあることを覚えておきましょう。