最近 両耳が全く聞こえないとされる作曲家が、実は18年間別人に代作させていたことが明らかになりました。彼は悪いことであるとは認識しながらも、このことが自分にとって都合がいいと考え、作曲偽装を続けていたようです。私たちは「見栄をはる」誘惑にかられるものです。自分についての事実をおおげさに言ってみたり、事実とは違うことを述べたり、見せかけの行動をしてしまうものです。「周囲の人によく見られたい」「見下げられたくない」「自分にとって得である」などの理由からなのでしょう。私たちは人が自分をどのように評価するかということを気にするものです。真の神様を知っているクリスチャンも例外ではありません。今回はクリスチャンの中にも起こりうる偽善の罪について考えます。(使徒の働き5:1-11)
① 意図的に隠すあざむきの罪 →聖霊なる神様がお降りになり、教会が建てられ、救われる人が増加していく祝福の中で、「事件」は起きました。5章の冒頭の「ところが」という言葉がそれを物語っています。アナニヤとサッピラの夫婦は自身の持ち物(地所)を売ってその代金の一部を使徒たちのところへ持ってきました。しかし、彼らの行動は見せかけ(偽装)でした。持ってきたものがあたかも全額であるかのようにふるまったのです。彼らは人々をだますつもりで(わざと)お金を手元に隠したのです。自分のものを売り、その代金を自分の手元に置くこと自体が罪なのではありません。またどれだけシェアするかについても、本人の自由です。ここで問題とされるのは、行なったことの裏側にある、隠そうとする意図でした。
② 意図的に偽るあざむきの罪 →隠すことと偽ることはしばしばセットで行なわれるものです。世の中で起こる脱税・横領・偽装などはそれに該当します。妻サッピラはペテロに対して、はっきりとこれが代金のすべてであると伝えました。「これで全部と言ったら皆にほめてもらえる」「一部だと言ったら彼らはケチだと言われるかもしれない」などの考えから導き出された夫婦としての一致した結論だったのでしょう。彼らは4章に登場するバルナバと表面的には同じことをしたつもりでした。しかし彼らの「つもり」はバルナバのような純粋なものではありませんでした。
③ 神様(聖霊)に対するあざむきの罪 →アナニヤとサッピラが行なったようなことは、人間の社会では見過ごされる可能性があります。もしかしたら、この夫婦は「うまくやらかす」ことができたのかもしれません。しかし、すべてをご存知で、すべてをご覧になっておられる神様はそれをおゆるしにはなりませんでした。神様はペテロに彼らの心と一連の行動について明らかにされました。ペテロは彼らの隠そうとしたこと・偽ろうとしたことについて知り、彼らを痛烈に責めました。彼らの罪は人に対してのものであるだけでなく、神様に対するものです。「人様に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない」と言うかもしれませんが、実はそうではありません。私たちの思い・考え・行動のすべては、私たちをお造りになった神様の前に説明のできる、そして純粋なものでなければならないのです。仮に人に迷惑がかからなくても、神様がお喜びにならないことであるならば、罪になるのです。全知の神様の前で、隠そうとすること・偽ろうとすること・試そうとすることは愚かであり、神様に挑戦するおそろしい罪です。
④ 神様にさばかれるあざむきの罪 →この夫婦は共に、死のさばきを受けることになりました。神様は厳しすぎるのでしょうか。ペテロには情けも寛容さもないと非難するでしょうか。ペテロはこの夫婦がもってきたお金がシェアされることによる「益」を考えることができたと思います。「夫婦の動機がどうであれ、皆の助けになるのであるからいいのではないか」と考えることができたかもしれません。「自分が厳しい態度にでたら、この夫婦や他の信者から非難されるかもしれない」と考えたかもしれません。しかし、彼は神様がご覧になるように、彼らの罪を見て、取り扱いました。人々に大きな恐れと衝撃を与えた「迅速な処刑」は、神様が偽善の罪を深刻に考えておられることを私たちに教えています。神様にとって、私たちが何をするかということと共に、どのような動機でするかも重要だということを覚えておかなければなりません。
まとめ: クリスチャンの歩み/奉仕は聖なる神様を反映する(映し出す)ものでなければならない →私たちの神様は聖い神様です。ですから、もし私たちが見せかけの信仰生活を送るとしたら、心の伴わない奉仕をするとしたら、お喜びにはなりません。人間の世界ではそれが通用するかもしれませんが、神様の前においては「結果オーライ」とはならないのです。偽善者とは「本当の自分とは違う誰かを演じる人」のことです。あなたが真の神様を知り、信じているのであれば、偽善の仮面を脱ぎ去りましょう。またそう出来るように神様に祈りましょう。人の目ではなく、正しい評価をしてくださる神様を意識して、このお方に真心から仕えようではありませんか。