人生には喜びや楽しさよりも、むしろ労苦のほうが多いと考える方が多いのではないでしょうか。新約聖書の中の多くの手紙を書いた使徒パウロも多くの苦労を経験した人です。しかし、彼は苦労の中で希望を見出した人であり、また誰でもその希望を手にすることができると語っています。ピリピ書は、パウロが獄中生活の中で書いた手紙の一つです。そのような喜ぶことが難しい状況の中で、彼は「恵みの福音」の中に希望があると語りました。
それは受けるに値しない者が、(この世界を造られ支配しておられる)神様からの愛顧の取り扱いを受けることができるという「福音」―良い知らせです。それは人が神様の前にゆるされるということ、そして神様の前に平安をもって生きることができるということです。神様の前においては本来罪のある人間が、その罪をゆるされ、正しいと認められるということであり、罪が処理されていることによって、恐れではなく安心をもって神様の前に立つことができるということです。このゆるしと平安があることによって人は真の意味において喜ぶことができるのです。(イザヤ43:25)神様との関係を破壊していた罪の問題が解決されたことにより、死後のさばきが免除されました。そしていつまでも続く神様との親しい交流―永遠のいのちをいただくことが可能となったのです。
パウロは軟禁状態で牢屋に身を置いていました。それは見えるところにおいて幸せな状況ではありませんでした。イエス様と出会って救われる前のパウロは、クリスチャンを迫害していた人です。救われたはずの彼が過去に犯した様々なことで良心を責められ続けているとしたら、決してこの喜びを経験しなかったでしょう。しかし彼も神様からの罪のゆるしと平安―恵みの福音に与って喜びを味わうに至りました。彼がクリスチャンの集団に対して(ピリピ1:3-6)、また投獄された自身のこと(同1:12-14)で表現している喜びは、この恵みの福音が、(困難にかかわらず、むしろ困難を通して)広まっていっているということでした。パウロはイエス様を喜んでいた人でした。そしてイエス様にその喜び―クリスチャンの喜びがあるということ、そしてそれは人間的なものではないことを語ったのです。(同1:19-21)
あなたは喜びの人生を求めておられますか。神様は「ただ信ぜよ」と仰います。それは(聖書に記されている)神様のことばをそのまま受け入れるということです。イエス様の十字架の死は、自分のためであった、身代わりであった、罪のゆるしのためであったと認めることです。罪がゆるされることによる安心は、あなたの想像をはるかに超えた喜びの人生へとあなたを招き入れます。今日 神様からの恵みの福音を受け取り、喜びの人生をスタートなさいませんか。