イエス・キリスト様を救い主として信じ救われたクリスチャンの大きな変化の一つは、神様のお望みになることを行いたいという願いが与えられることです。神様が一人ひとりにもっておられるお考え・計画を御心と言います。イエス様によって罪がゆるされ、永遠のいのちの約束をいただいた人は、この神様の御心を行いたいと思うのです。一方で御心を知ること、また御心を実行することが必ずしも簡単ではないという現実にもしばしばぶつかります。今回は約2000年前に活躍した宣教師の姿から御心についてのヒントを学んでみたいと思います。(使徒の働き8:26-40)
①神様が示されたところに行ったピリポ (26-28節) →今回の箇所は「ところが」という表現で始まります。サマリヤでの宣教の働きの途中での出来事です。ピリポは主の使いによって神様から、立って、荒れ果てているガザの方向に行くようにと言われました。彼はそれに従いました。誰でも住み慣れた環境・慣れた人間関係や仕事から離れることは好まないでしょう。特に自分が活躍している最中、そして成功の階段を上っているような時であるならなおさらです。ピリポにとってサマリヤの現場はそのようなものであったでしょう。しかし彼は神様が示されるところに従い進んでいきました。神様による配置転換を受け入れたのです。その結果 彼はエチオピヤ人の高官に出会うこととなりました。エルサレムへ礼拝のために行き、帰る途中であったこの高官は旧約聖書のイザヤ書を読んでいました。御心に従ったピリポは神様のご計画により、一人の真実を求める人に遣わされたのです。
②神様が指示されたことを行ったピリポ (29-38節) →再び 御霊なる神様が、ピリポに指示されました。馬車に乗っているこの高官に近づき“加わるように”と。ピリポはすぐに走っていきました。この後の細かい支持は記録されていませんが、神様の御心を行おうとする彼には何をすべきなのかがわかっていたのでしょう。彼は、イザヤ書を読んでいるエチオピヤ人の高官が、内容の理解のために助けを求めたことに応じました。高官はイザヤ書の53章の7-8節を読んでいました。そこには後に人としてこの世界においでになるイエス様の謙遜・忍耐・従順・苦しみ、そしていのちの源であられるお方がご自身を放棄されることなどが記されていました。高官はこの記事が誰について書かれたものであるかわからなかったのですが、ピリポはその説明から始めて、イエス様がどのようなお方で何をされるのかを語りました。真実を求める一人の外国人に明確にみことばが語られたことでしょう。その証拠にこの高官は、イエス様を個人的に信じて従う第一歩としてバプテスマを受けることを望みました。神様はそのための場所も用意してくださり、速やかにバプテスマが執り行われました。ピリポはこのような結末を知っていたわけではありませんが、自分のわかっていることを忠実に行っていくことによって、続いてなすべきことが何であるかを明確にしていったのです。
③神様の導きに委ねたピリポ (39-40節) →エチオピヤ人の高官のバプテスマの直後、ピリポは再び配置転換されます。主の使いが彼を北の方へ連れていったのです。ピリポの反応については記されていませんが、彼が行った先々で聖書のことばを語り続けていったことを見ると、彼が神様の“異動”を快く受け入れ従ったことがわかります。神様の御心に従ったピリポは外国の高官の所に、絶妙のタイミングで遣わされ、高官は真の喜びを経験するに至りました。神様の導きに委ねたピリポに、神様は収穫のある働きを委ねてくださったのです。
まとめ:御心を行うしもべは神様のお考えを素直に受け入れる者である →クリスチャンの心の中には御霊(聖霊)なる神様が住んでいていくださいます。立場においてクリスチャンは、御霊に導かれる存在です。(ローマ8:14) そして御霊に導かれる歩みが求められています。それは神様のみことばを受け入れて従っていく時に可能となります。祈りをもって、みことばに導きを求める時に進むべき道がどれで、なすべきことが何かが示されるのです。神様のお考えは私たちの都合や願いに合わないこともしばしばです。また神様のお考えに従うことは、神様の考えておられるタイミングや方法も受け入れることを含みます。そういう意味において神様の御心に従うことは簡単ではありません。そこに信仰―神様を信ずること―が必要になります。私たちに対する神様の御心は命令であるということができます。ピリポは神様の権威を認め、御心(命令)に素直に従いました。そして彼は神様に豊かに用いられました。彼は神様の素晴らしいみわざを見ることができ、彼自身も祝福を経験しました。神様は現代においても、ピリポのように、素直に信じて従う人を求めておられます。