主イエス・キリスト様の死に続く復活によって、イエス様が無罪であられることが示されました。無罪性を有しておられるのは神の御子であられるイエス様だけです。人々はイエス様が重大な冒涜の罪を犯したと認定し、十字架刑を科しました。しかし復活によって、イエス様が死に値するお方では全くないということがあらわされました。(使徒の働き2:24,27)
①主のご主張とみわざ:イエス様には罪があると言って責めることができる人は誰もいません。(ヨハネ8:46) イエス様の死は、ご自分のためではなく、罪のある人間のためでした。
②罪のない方が罪人の罪を背負われた:罪のないイエス様が罪人の罪を身に負ってくださったのです。(Iペテロ2:22-24) 罪のある人間は罪の恐ろしさを十分に認識していません。罪は重大な結果をもたらすものです。最初の人間が犯した罪は、その後に地球に存在することになった何十億という人々の死を決定付けました。罪には罰という結果が伴い、また罪の性質が受け継がれるのろいという結果が伴います。
③主のみわざの結果:感謝なことに、罪のないイエス様の死は、罪人の罪を取り除き、罪をゆるすという幸いをもたらしました。 私たちがもっている罪の性質は増殖するものであり、不幸を増すものでもあります。残念なことに、私たちは罪によって負の遺産を先祖から受け継いでいます。神様は罪のないお方を、罪のある人のように罰することを容認してくださいました。(IIコリント5:21) 驚くべきことに、罪人が神様の正しさをいただき、正しい者としてみなされることが実現したのです。イエス様が自発的に罪人の罪を背負われたことにより、私たち罪人は、罪の活動を停止し、正しい活動ができる人へと変えられる道が与えられました。(Iペテロ2:24) イエス様を信じた人は罪に定められることがなく安心して過ごすことが出来ます。(ローマ8:1) 神様は私たちの罪をゆるしてくださっているだけでなく、忘れてもくださっています。(へブル10:17) 私たちは、最大の問題である死とその後についての完全な解決をいただいたのです。それは誰も侵すことができない平安です。
日常生活においてはなお様々な心配事が起こってきますが、そのような中でも、感謝のうちに、祈り願い、神様に委ねることができる特権をいただいていることを覚えましょう。(ピリピ4:6-7)