ことばはちからのあるものです。あることばは人を生かし、あることばは人を死に至らしめるものです。あることばは人に勇気と励ましを与え、あることばは痛みと傷を与えます。人が生きるためには、食物と共に「益となる」ことばが必要です。神様に造られた存在として、神様からのことばは必要不可欠です。人は神様のことばによって本当の意味で人間らしくいきることができるからです。今回は人を新しく造り変え、新しい歩みへと導く神様のことば、特に神様からの救いのことばについて考えましょう。(使徒の働き13:26~37節)
I. 送られた「この救いのことば」(26~27節前半) →前回から、第一次宣教旅行中のパウロがピシデヤのアンテオケで説教をしている場面ですが、26節に「この救いのことば」という表現があります。この救いは、イエス様の十字架の死・葬り・復活・顕現(現れてくださったこと)が土台となっています。この救いのことばは神様から私たちに送られたものであり、いのちを与えるものです。(使徒5:20; ヨハネ6:68)神様は罪を持ち、罪の中に生きるこの世界の人々に、御子イエス様をことばなるお方として送られ、また神様のことばを伝える預言者たちを送られました。残念ながら人々(特にユダヤ人)は、イエス様を神の御子として認めることができず、イエス様を指し示している預言のことばも受け入れることができませんでした。
II. 成就された「この救いのことば」(27節後半~30節) →イエス様がこの世界に来られたのは、罪人に救いをもたらすためですが、神様は救いの成就のために、イエス様に敵対する者たちによる十字架刑をおゆるしになりました。ユダヤ人たちは、イエス様をメシヤとして認めることができず、イエス様の無罪を主張する総督ピラトに反対し、結果的に適切な法的手段を経ないままイエス様を死刑に処しました。しかしこれらの一連の出来事は、すでに旧約聖書において預言されていることの実現に過ぎませんでした。罪人の策略のはるか上にご支配なさるお方の救いの方法であったのです。神様はイエス様を死から復活させてくださいました。イエス様が死なれたのみでなく、よみがえられたことにより、神様のことばは救いのことばとなるのです。神様の約束は成就したのです。30~37節に登場するイエス様の復活に関する表現に注目しましょう。
III. 証しされた「この救いのことば」(31~37節) →復活されたイエス様を多くの者達が目撃し、その証しがなされました。また神様があらかじめ約束してくださった預言のみことばを信ずる者たちによって、この救いのことばは証しされてきました。かつてアブラハムやダビデが神様からいただいた約束を含めて、メシヤに関する約束はすべてイエス様において成就することをパウロは強調しています。イエス様の死と復活の後に生きる私たち一人ひとりにとって、これは救いのことばであり福音です。旧約聖書の3箇所の引用(詩篇2:7; イザヤ55:3; 詩篇16:10)は、イエス様の復活が神様主導の、そして確実に実現を見るご計画であり、すべての世代を永遠の幸いへと導くものであることを示しています。朽ち果てることのないイエス様のメッセージはこの時代においても真の救いのことばとして証しされ続けているのです。
まとめ: 私たちに送られ、成就された救いのことばは、なお証しされるべきいのちのことば →愛と憐れみに富んでおられる神様が、私たちとの交流を望まれ語りかけてくださったことは本当に感謝なことです。神様のことばは、人間の本来の姿を浮き彫りにし、悔い改めへと導き、神様との関係正常化を実現し、いのちの道へと進ませるものです。神様の約束のみことばの一つ一つは忠実に確実に成就され、これからも成就していきます。私たちクリスチャンは、個人的にこの救いのことばに与り、その効果を適用していただきました。神様から救いのことばをいただいた私たちは、なお神様の霊的糧であるみことばによって日々養われ活かされ、霊的に健康で力強い者として、主の効果的な証人として用いていただきましょう。