“人はどのようにして救われるか”は人間にとって非常に重要な問いかけです。誰もが本当の幸せを求めているからです。今回は「エルサレム会議」の記事から救いの条件について確認したいと思います。(使徒の働き 15:1~11)
I. “ある人々”の主張: 誰でも救われるためには行いが必要である →救いは、“人が何をするか、何をしたかによる”という考え方です。今回の記事でも、救われるためには割礼を受ける必要がある、モーセの律法を守る必要があると主張している人々がいます。この考え方では、救われるためには人の努力が必要となるということです。そして、自分がしたことへの神様の評価が重要となるのです。これは行いによる救いです。
今回の記事で登場する、割礼を行なうことや律法を守ることは、あるユダヤ人達が、異邦人達に対して救いの条件として要求していることです。ただこれを求めているパリサイ人やユダヤ主義者と呼ばれる人々には問題があります。それは自分達でさえ完全に実行できないことを異邦人達に求めていることです。(マタイ23:4; ローマ2:23-24; ガラテヤ6:12-13)
パウロは、後にローマ書の中で告白しています。自分は律法を守ろうとして苦しんだが、かえって律法に死を宣告された。律法によって罪は浮き彫りになる。全世界の人々は神の前に有罪であると。(ローマ3:19-20; 7:9-10)
II. 聖書の教え: 誰でも救われるのは神の恵みによる →救いは、“神様が何をなされるか、なされたかによる”という聖書の教えです。この教えでは、救われるためには、受け入れる(信ずる)ことが必要となるということです。神様がなされたことへの応答が重要となるのです。これは恵みによる救いです。
ペテロは、神様が自分を異邦人伝道のために選ばれたこと、人の心をご覧になられ信ずる者に聖霊をお与えになること、信ずる者の心をきよめてくださること、以上の事柄において(ユダヤ人であるとか異邦人であるとかの)差別を設けてはおられないことを語りました。どのような人も同じ条件で神様からの救いの恵みを手にすることができる、その他の条件を人が付け加えてはいけないというのが彼の結論です。
まとめ:人の罪がゆるされ、永遠にわたる真の安全と幸いを得ることができるのはイエス様の恵みのみによる →世の中の多くの宗教は、“行いによる救い”を説きます。人の努力・善行・修行が結果的に幸せ、そして「天国への切符」を得ることにつながると。聖書は、人がどのように頑張っても神様の要求を満たすことはできない、神様の標準には達し得ないことを教え、人はそのままでは絶望状態にあると説きます。神様の恵みはそのようなあわれな人―罪人―に注がれました。イエス様の身代わりの死によって可能となった罪のゆるしを信じて受け取ること、それは神様が用意してくださった救いの恵みを経験することです。“~しなければ救われない”とは人間の発想です。そして神様(イエス様)の恵みによって救っていただいた人は、“イエス様の恵みによって救っていただいたのですから、恵みによって歩ませていただきます、歩ませてください”という姿勢で信仰生活を続けるのです。