使徒の働き 16:16-24―ピリピに滞在中のパウロたちが、占いの霊につかれた少女に会いました。パウロは彼女をコントロールしている霊に、イエス様のお名前によって、彼女から出て行いくように命令しました。この少女は正常になりましたが、彼女を使って多くの収入を得ていた主人たちは憤慨し、パウロたちを公の場で訴えました。「もうける望み」が絶たれてしまった彼らは、パウロたちについて、事実とは異なる事柄をならべたて、結果的には行政のリーダーも、適切な手順を経ることなく彼らを鞭打ちにし、一番奥の牢に入れてしまいました。
今回の箇所では、神様がお望みになることと、この世(の人々)が望むこととの大きな違いを見ることができます。
神様が罪のある人間に対してお望みになる一つのことは、救われることです。(Iテモテ2:4) 神様は、罪人が世界の絶対的主権者であられる神様を知り、正しい関係を築くこと、罪人が救いの道を知り、天の御国へとつながる道に入ること、罪人が罪の歩みから解放されて、まことの神様にお仕えする自由を手にすることを望んでおられます。そしてこれが、人間にとっての幸いです。
一方、この世(の人々)も幸せになることを望んでいます。しかし、その幸せを、まことの神様を抜きにして得ようとしているところに問題があります。そこには「神様は、何を自分に望んでおられるのだろうか」という問いかけは存在しません。自分自身が「これが幸せだ」と思うものを自分の方法(とちから)で追求するのです。その「幸せ」は、自分が手に入れたもの、或いは目に見える何かによってはかられることがしばしばで、必ずしも継続せず、満たされることがなく、虚無感を覚えることになります。
神様は、今回の箇所で占いの霊につかれた少女によってもうけていた主人たちにされたように、この世の望みを断ち切られることがあります。それは何を意味するのでしょう。
I. それは主の憐れみある介入である →すべての人の幸せを望まれる神様は、良い結果のために、あえて人が望まない(表面的には決して嬉しくない)経験をお与えになることがあります。
II. それは主の望みに目を向けるチャンスである →自身が持っているもの(蓄えてきたもの)や、世の中における立場が失われた時は、それらが本当の幸せをもたらすものではないことに気付くチャンスであり、まことの神様を知るチャンスとなります。自分を造り生かしておられるお方と向き合い、このお方の前にひれ伏し、立ち返るチャンスとなります。
III. それはまことの神様に対して心を硬くし、反発する機会となりうる →占いの霊につかれた少女が救われ、変えられたことを、主人たちは喜びませんでした。神様が用意される幸いよりも、自分の利益(そしてそれから得られるとされる幸せ)を重要視したのです。それはこの世の望みに執着している人のあわれな姿です。それは、まことの神様が何を望まれ、何を良いとされ、何を正しいとされるかという基準ではなく、自分が何を望み、何が得かという基準で生きている人の姿です。
クリスチャンは、イエス様のお名前を掲げて生活する者です。そのクリスチャンの行動によっては、周囲から反対の声があがります。それは多くの場合において、結果としてクリスチャンではない人に不便/不都合、不利益、不公平が生じる時に起こります。(時には嫉みによって生じることもあるでしょう) 神様が望まれることを行おうとする者と、この世の望み(自分の望み)を行おうとする者との対立が起こり、それがクリスチャンに対する迫害へと発展することもあります。
まとめ:主にある望みを日々確認する者は信仰による歩みを継続する →クリスチャンはなお、幸福感・安心感・喜びを世の中の感覚で求めてしまう誘惑があります。この世の望みに流され一喜一憂するようなこともあるかもしれません。またクリスチャンとして、主の望まれることを求める上で、この世の望みを追求する人との衝突が避けられない場合もあるでしょう。私たちは、このような内外で発生する戦いの中で、常に主にある立場と主にある恵みの原点に立ち返る必要があります。主の望みを自分の望みとする者の歩みには平安と喜び(幸い)があることを確認する必要があります。