イエス様を信じた人は、神様にお仕えする人に変えられます。しかし、見えるところにおいては、人に仕え、教会のために奉仕をすることになります。そのため、神様のための奉仕がいつしか人間的な作業になってしまう傾向にあります。もしそうであるとするならば、奉仕は単なる負担となってしまうかもしれません。今回はパウロの語ったところから、神様に対する奉仕の姿勢について学んでみたいと思います。
エルサレムへ向かう途中で、パウロはエペソに立ち寄ることはしませんでしたが、近くのミレトに滞在中、エペソの教会のリーダー達を自分のところに呼び寄せて語りました。
I. パウロの主に対する奉仕:過去の実績(19~21節) →パウロは以前エペソに滞在中、どのように過ごし、どのように奉仕をしてきたかを語りました。それは先ず ①自身を献げる奉仕でした。“仕える”とは奴隷として給仕するという意味です。彼はイエス様のしもべ(奴隷)としてお仕えし、またそのことを喜びとしました。(ピリピ1:1)
彼は謙遜にお仕えしました。自身の弱さを認めるとともに、神様のちからを認める態度で仕えたのです。(ピリピ2:3; エペソ4:2; Iペテロ5:5; マタイ11:29; コロサイ3:12) また涙とともにお仕えしました。キリスト様を知らない人々のため(ローマ9:2-3)、成長段階にある信者のため(IIコリント2:4)、そして偽教師の攻撃のため(使徒20:29-30)に彼は涙を流しました。さらにパウロは忍耐をもってお仕えしました。反対するユダヤ人からのプレッシャーは常にパウロに重くのしかかりました。(IIコリント11:24,26)
パウロの奉仕は ②イエス様を指し示す奉仕でもありました。彼ははばからず(27節)、場所も相手も選ばず、みことばを伝えました。
II. パウロの主に対する奉仕:今後の覚悟(22~24節) →エルサレムに向かうパウロは、先ず ①知らないことがある中で“私は参ります”と言いました。先のことが不確かな状況の中で、彼には自分をあがない(救い)、自分を奉仕のためにお召しになったお方に対する熱い思いがありました。そして ②知らされている困難がある中で“私は参ります”と言いました。聖霊なる神様により困難が待っていることが知らされていました。(詳細はアガボによって知らされる 21:10-11)さらに彼は ③任務遂行を最優先にして“私は参ります”と言いました。パウロの最優先事項、それは自分の走るべき道のりを完走すること(ピリピ3:13-14)、そして福音を証しする役目を果たすことです。それはイエス様から授かったお役目であり、命がけで果たしていくお役目であることを彼は認識していました。
まとめ: 主にお仕えする者は、主に栄光を帰し、人々に祝福をもたらし、自身も神の恵みを経験する →奉仕において、自分と人だけを見ていると、傲慢になったり、不公平感を覚えたり、疲れてしまったりします。しかし私たちが、主から目を離すことがなければ、奉仕の姿勢が正しいものとなります。また人々に真実を語るちからが与えられます。覚悟を決めて神様にお仕えすることができます。主にお仕えする人は、主に喜ばれ、人々に益となり、結果的に自分も喜びを経験することができるのです。