パウロがローマの市民権を持っていることを知ったローマの千人隊長は、パウロがユダヤ人に訴えられた理由を確かめるためにユダヤ議会の召集を命令しました。パウロは議会を前にして、「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けている」と言いました。この発言は社会的・政治的・宗教的相違のあるパリサイ人とサドカイ人との間に激しい論争を巻き起こすことになりました。今回はパウロのこの発言に着目し、死者の復活に関する以下の3点について聖書が語っていることを確認したいと思います。(使徒の働き 22:30-23:11)
I. 死者の復活は現実である(使徒24:15; ヨハネ5:25, 28)
II. 死者の復活は希望である(ヨハネ6:40; 11:25; IIコリント4:14; Iテサロニケ4:16; Iコリント15章)
III. 死者の復活は人々を二分する(ヨハネ5:29)
聖書によると、すべての人はやがてよみがえります。そしてイエス様を信じた者にとって、復活は大きな希望です。しかしイエス様を信じない者にとってそれは絶望的なものとなります。
まとめ:死後の復活の希望は、信者の歩みを神様の前にあって生産的・肯定的なものとする →一般の人々にとって、死は受け入れざるをえない(単に)悲しい出来事として取り扱われることが殆どではないでしょうか。死んだらどうなるのか、どこへ行くのかを知らず、希望的観測のみで考えたり発言したりしています。真実を知らず、確実に自分の身に起こることについての準備ができていない(準備の方法を知らない)あわれな姿です。
クリスチャンにとって、死は神様から与えられる救いの完成のための通過点に過ぎません。イエス様を信じて、罪をゆるしていただき、死後の罰を免除され、永遠のいのちの約束をいただいたクリスチャンは、死が終わりではないことを知っています。死は未経験ではありますが恐れるものではなく、むしろ新しい始まりであるととらえることができます。死は、罪人として罪の世界に生きてきた者が、すべてのマイナス的要素(悲しみ・苦労・罪・病気・老化・死etc.)から解放される瞬間なのです。そして死の先には希望に満ちた復活があります。それは十字架で身代わりに死んでくださりよみがえってくださったイエス様のみわざに基づくものです。復活はすべてを新しくされた者(栄化された者)がイエス様と永遠にわたって暮らすことができる現実です。この希望をいただいた者には死後の永遠についての安心があります。そして今の(残された)地上での時間を、神様に目を向けて歩むことができます。それは神様に喜ばれるものを生み出す、天に宝を積む歩みです。ですから「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」(黙示録14:13)と心から宣言できるのです。