ポルキオ・フェストはペリクスの後任として総督になりました。彼が着任して早々にエルサレムに上ったことは、彼が行動の人であることを示しています。パウロについては、彼を殺害しようと企む祭司長たちから、彼をエルサレムに連れてくるようにとの陳情を受けます。フェストはまもなく帰ろうとしているカイザリヤに共に来てパウロを訴えるようにと命じます。カイザリヤでの裁判でパウロは再びユダヤ人から訴えられましたが、証拠の伴うものではありませんでした。パウロは弁明し、自身が無罪であることを主張しました。また総督フェストの前で、カイザルに上訴することを宣言しました。(使徒の働き25:1-12)
無罪であるパウロに対するユダヤ人たちによる証拠のない訴えは、罪のないイエス様が捕まえられ、裁判にかけられ、殺されたことを連想させます。(7-8節、 10節)今週はイエス様の苦しみを覚える受難週です。罪のまったくないイエス様の死を覚え以下のことを黙想しましょう。
I. イエス様は罪がまったくないのに、罪人のために死ななければならなかった →神の御子であられるイエス様を十字架の死にまで引き渡した人々の罪深さを考えましょう。
II. イエス様は罪がまったくないから、罪人のために死ぬことができた →唯一罪人の身代わりとなることが出来るイエス様を遣わしてくださった神様の恵み深さ、救いの計画の不思議さを考えましょう。
(罪のないイエス様に関する参考箇所:イザヤ53:9; ルカ23:41; ヨハネ8:46; IIコリント5:21; ヘブル4:15; 7:26; 9:14; Iペテロ1:19; 2:22-23; Iヨハネ3:5)
まとめ: 罪のないイエス様の計り知れない苦しみは、信ずる私たちが計り知れない幸いに与ることを可能とした