私たちの神様は与えてくださるお方です。イエス様がお生まれになったことを特に覚えるこの時期は、同時に神様が与えるお方であることを覚える時期でもあります。(イザヤ9:6)私たちは神様から多くのものをいただいています。そこには私たちが気付いていないもの、与えられることに慣れてしまっているものも多くあることでしょう。(ヨハネ3:27)それら一つ一つを思い出すことはクリスチャンとして有意義です。今回は私たちが与えられているもののいくつかについてヨハネ伝を中心に学び、再認識したいと思います。
I. 父なる神様はイエス様を与えられた (3:16)→イエス・キリスト様は私たちに対する神様からの最高の贈り物と言っていいでしょう。神様が御子をお与えになったことにより、多くの素晴らしいものが神様から私たちに、また御子を通して私たちに与えられ、そして与えられ続けています。誰でも自分の大切なものを手放すことは困難です。それが一つだけで代わりがないのであればなおさらです。その大切なものを手放すということは、与える相手が同等に、或いはそれ以上に大切に扱われているということです。私たちが神様にそのように扱われたことは不思議です。父なる神様が御子イエス様を私たちに贈られた動機は愛であると聖書は言っています。愛されるような何かがあるわけではない、ましてや神様の最高の贈り物を受け取るような資格も理由もない私たちを愛してくださること(愛してくださったこと)については理解できません。であるからこそ、この事実を私たちは厳粛に受け止め黙想する必要があるのです。
II. 父なる神様はイエス様をいのちのパンとして与えられた (6:32-35)→私たちに与えられたイエス様は、いのちのパンとして紹介されています。モーセの時代、イスラエルの人々はパンのような食べ物、マナを神様から与えられました。それは一時的な空腹を満たすためのものでした。しかしいのちのパンであられるイエス様は、人の必要を満たし、決して飢えることがないものです。それは信じて受け取る者を霊的に生かし(活かし)続けるものです。(6:48-51)
III. イエス様は活ける水を与えられた (4:10)→イエス様はサマリヤの女性との会話の中で、生ける水をお与えになることができることをお話になりました。旧約聖書においては、神様が「活ける水の源」として登場します。かつてイスラエルの人々はこのお方に従わず拒絶したのです。(エレミヤ2:13)また旧約聖書には、この水が神様を知ることを可能にし、きよめや霊的生活、そして聖霊による変化の恵みを提供することが述べられています。(イザヤ1:16-18; 12:3; 44:3; エゼキエル36:25-27)
イエス様からの活ける水は、霊的に死んだ者を生き返らせ、生かし続け、永遠の満足を与えるものです。(4:14)
IV. イエス様は永遠のいのちを与えられた (17:2)→「永遠のいのちへの水」(4:14)を与えられたイエス様は、文字通り永遠のいのちを私たちに与えてくださいました。神様が救いに選んでくださった者がそれを手にすることができ、その永遠性は確実なものです。(6:27; 10:28; ヨハネ第一5:11)
V. イエス様はご自分のいのちを与えられた (10:11)→欽定訳ではこの節を“いのちを与える”と訳しています。これはイエス様の、十字架における罪人のための身代わりの死を説明するものです。神様がイエス様を私たちに与えられたことの究極の意味がここにあります。それは私たちに対して神様の驚くべき愛を示すことであり、私たちのためにいのちのパンとなることであり、活ける水そして永遠のいのちを与えるためだったのです。
まとめ:イエス様、霊的いのち、永遠のいのちを与えられた者としての生き方を示せ →(今回学んだ)神様から与えられるものは、どれも肉眼では確認することができないものです。私たちは見えないものを信仰によって見、受け取り、経験しているのです。見えないものであるからこそ、それらを与えられた私たちの生き方は重要です。目に見えないお方イエス様がどのようなお方であるのか、そして与えられたいのちの効果がどのようなものであるのかを、私たちの生き様によって映し出すからです。私たちは与えられたことにより、変えられ、満たされ、新しい歩みをスタートすることができました。神様から与えられたものを再確認し、その祝福の中で歩み、用いさせていただきましょう。